心友 + エピソード 35

私にはお互いを親友と呼べる存在の親しい友人が、おそらくは10名ほどいる。それは付き合いの時間の長さでなく、人生のひと時を一緒に過ごし、一緒にいると心地よく、気心の知れた、心許せる心友達である。この多くの友人たちが居てからこそ、今まで楽しく暮らしてこれた。

 

70歳を越えると体調を崩す人も増えてくる。コロナ禍で長く会えなかった心友たちに

行動制限のなくなった今年は、会えるうちにと思い、積極的に会いに行っている。

 

そんな一人、Uは50年前、私が初めて世界放浪の旅行に出た時に旅の後半にアテネで出会った心友である。あの頃、世界中どこにでも旅する若者は日本人とドイツ人と言われていた。ヨーロッパでは定住している中国人と、観光地には団体旅行で来た日本人はいたが、旅をしているアジア人の若者はほとんどすべて好奇心旺盛な日本の若者であった。

 

そして、異国の地で出会った日本人はすぐに仲良くなった。あの時の旅の出会いが、私の友達作りの原点になっている。ロンドン留学の帰りのUとはそんな我々が一番輝いていた青春の時代に出会い、一緒にアテネから中近東を通り、祖国日本を目指した仲間であった。

 

その彼と、彼のロンドン時代の友人で私も何度も会っているSさんとの3人で9月中頃の先日、東京で再会した。Uは2か月前に15年前に受けた舌癌の再手術を受けていて前回は会えなかったが、今回は、会いに来てくれた。一見元気そうに見えるが、もう一度手術をすることになれば、直接口から食事が取れなくなり、胃瘻処置をしなければならないと言われているという。

 

懐かしい70年代の話で盛り上がる。青春真っただ中の中近東での旅行は今も私の心に強烈な印象を残している。Uとの一か月ほどのアテネからインドのニューデリーまでの列車と乗り合いバスによる旅は冒険心と、若さゆえの遊び心のある、記憶に残る旅であった。

 

バスの中でイスラム教の人たちのお祈りの後、我々もお祈りをして車内を盛り上げた、アフガンの兵隊さんを軽くからかい、今だったら撃たれているだろう、現地のメロンを買ってアミダクジで取り分を決め、ロンドン帰りの長髪を短髪にされ、ちょうど半世紀前、今よりも平和であった中近東の旅は、いまでも鮮明に我々の記憶に残っている楽しい旅であった。

旅から帰って羽田に着いたUの持ち金は迎えに来てもらうための電話代10円玉一つだった。そして彼よりも半月ほど遅れて帰った私もまた、高円寺まで帰る現金120円で羽田に帰国したのであった。旅から帰って彼はちゃんとした会社に就職したが、私はまた、その後42年間のアメリカ移住へと続くことになる旅にでた。彼とは私が帰国すると、何度か会っていた。

 

今回、駅での別れ際、「お互い、まだまだ、死ぬなよ。また会おうぜ」と心友に無言のエールをおくる。

 

『旅人、ユーラシアを往く』 (skizanmai.com)

で、その時の旅の全貌が読めます。

 

梅谷と私

イスタンブールにて

エピソード 35 肩の手術

 

約4か月前、私は新調した20インチのミニベロ自転車の初乗りで転倒して、右肩を打撲した。その時は痛くてしばらく動けなかったが、5分ほどで自転車で帰宅出来るくらいになり帰宅した。その後、肩はそこそこ動き、日常生活に大きな支障はなく過ごせていた。しかし明け方の疼きが安眠を妨げる。一定の方向へ無理に動かすと痛さを感じる。その状態が2週間経っても変わらないので、一応、整形外科に行ってレントゲンを撮ってもらうと、「軽症です。時間はかかりますが、治るでしょう」と言われた。その際にも、MRIのある病院への紹介状を求めたが、先生は「この程度で病院へ紹介したら、笑われますから」、とまで言うので、そのまま何もせず様子を見ることに。

 

それから、さらに2か月がたち、朝方の痛みは取れない。3度目の診察でヤブ医者先生に強くお願いして、新潟県内では大学病院より肩の手術では実績が良い済生会病院の副院長でもある塩崎先生宛に紹介状を書いてもらった。数日後、塩崎先生の診察を受けたら、私の腕の動きを見て、まず言われたのが「軽症ではありません、年齢、行動歴を考えると、今のうちに手術をした方がいいでしょう」とのこと。そのあとのMRIの検査の結果は、やはり肩の腱板断裂で三本のうちの一本が切れているということだった。この塩崎先生、私がもともと高田の出身だと言ったら、「どちらの高校ですか?」と聞いてきて、話したら高高の後輩だそうで、心強い思いである。

 

早速、親しい仲間に、「塩崎先生の手術を受けることになりました。高高の同窓生だそうです」と、お知らせをしたら、アメリカLAのCちゃんから、「その先生、私の弟と仲のいいお友達かも、母に聞いてみるね」彼女は私の高校での友達K君の従妹であり、LAでの親しい友人で、彼女の弟は今はシンガポールに駐在している。「やっりぱそうだって、去年弟は帰国の折、新潟に行って一緒に温泉に行ってるって」世界は狭い、世間は狭い、新潟はもっと狭く、今新潟で一番身近にいるO君をはじめ、ここのコラムに登場する人物は皆、高高つながりなのである。

 

9月29日に手術を受けることになり、施術後筋が付くまで絶対安静で2週間の入院になるという。手術から1か月半は、装具(ギブスのような固定装具)を着けての生活になる。11月11日に装具を外してからは次第に運転など普通の生活が出来るようになるそうが、「完全復帰までは半年かかると思ってください」ということで、「スキーも春まで控えてください」と言われたが、来年の春は早く来そうな気配である。

 

今週のミーちゃん

暑い夏もファーコートを着て、暑そうですが、元気いっぱいです







熱い夏

2017年春に日本に帰国してから6年が過ぎたが、まだ当分は私の人生は海外での生活の方が長い。日本に帰国してからコロナの直前の2019年秋までにヨーロッパ、中国、そして古巣であるLAへ3週間の旅行滞在を一緒にしてきたO君から、「海外に行くなら小堺と行くのが一番安心。また是非一緒にいきたい」と、ラブコールをもらっていて、コロナ感染もだいぶ重篤になる患者の割合が減り、最近新潟空港からの台湾向けのフライトが再開されたので、7月24日発で久しぶりの台湾への海外旅行を予定していた。

 

しかし予定外の台風が台湾を最悪のタイミングで襲う事態となり、急遽、出発の前日にキャンセルした。我々は観光に行きたいのであり、ホテルに監禁されて窓から台風を見るために行くのではない。幸いコロナの不安もあったので今回はいざという時のキャンセル保険に入っていたので、実際の損失は1万円くらいで済んだ。

 

熱い夏の日が続いている。コロナ禍でも、地元の日帰り温泉へはO君、Fさんと月2くらいの頻度で行っている。最近の楽しみは温泉の前のパークゴルフ。ゴルフより遥かに安く、ゴルフに近い感触のプレイを楽しめる。実際、ゴルフをしていた人たちや、ゲートボールをしていた人たちからの乗り換え組の人達からも、その満足度の高さを称賛する声を聴く。まだまだこれからパークゴルフ場も増えていくことだろう。

 

さて、さて。台湾旅行が無くなり、代わりに東京へコロナ後初めて遠征することにした。東京もまた久しぶりである。

弟と昼ご飯を一緒して、向かったのは東京で一番激しく変わっているという渋谷。渋谷は昔、アルバイトで通った町であったが、降りたとたんに方向を失った。何となく忠犬ハチ公の像の前に出ようと歩いていると、路上の日陰にイスラム教徒のトーブの民族衣装を着てやせ細った男が横になっている。それはインドの聖地アグーラで見た死にゆく人の風景のようであった。

 

黙って1000円札を男の手に握らせると、横たわったまま言葉にならない小声を出して男は私に感謝を告げようとする。どういう事情があって異国の地で今、力尽きようとしているのか知る由もないが、コロナ禍で誰も関わろうとしない。私に出来ることはそこまでであった。これも昔、私が世界で放浪中に見知らぬ人から受けた親切へのお返しと思って困っている人を見過ごすことができず、日頃から心がけてやっていることに過ぎない。

結局渋谷ではこの施しをするためだけに降りたことになった。私はまだ徳を積み切れて居ないのか、見返りを期待しない善行ではあるが、こういう行為は周りをほっこらと明るくすると思っているので、隠さずに機会があれば周りの人に話すのである。

 

夕方、中目黒で久しぶりにHちゃんに会う。彼とはエルエーの語学学校で会い、実際に一緒に過ごした時期は短かったが、すごく内容の濃い異国での青春時代をともに過ごした親友である。その後、私はカレッジへ、彼は州立大学へ進み、アメリカでは、たまに会っていた。1980年に彼が日本に帰ってからは、なかなか会えなくなったが、ずっと付き合いが続いている。

 

彼はビートルズのメンバーと、オノヨーコなどが造ったNPO Non-Violence Projectの日本支部を設立し、ポールマッカートニーとも直接話すことの出来る立場にいる。その他、日本近代5種協会の理事、2028年からオリンピックの正式種目になる日本オブスタクル協会の副理事長などをやっているので公人として名前を出してもいいのであろうが、プライベートな付き合いなのでイニシャルにしておく。

オリンピック+エピソード5 - skizanmaiの日記 (hatenablog.com)

エピソード5をご覧あれ。

 

会えば途端に昔の二人に戻れる。いい時代に、いい場所で楽しい時間をともに過ごしたのである。そして今夜も会っていた4時間は時を超えて、あっという間の最高に楽しい時間であった。

今回、ツーショットを取り忘れたので、40数年前のエルエーでの写真を一枚貼っておく。

東京に一泊して、翌日、池袋で高校のOBの仲間と飲食する。大都会の変貌は早い。池袋もすっかり変わっていてまた方向が分からず、迎えに来てもらった。4人のうち2名は博士号を持ち、卒業後の経験は人様々で、その後の各自のこれまでの人生を聞くのは興味深い。皆、だんだんと活動の範囲を狭めていく年齢であるが、昔の同年配よりまだまだ頑張っている。

 

8時52分の列車で新潟へ帰る。便利になったが、マスクをした人としない人、車内ではなるべく会話をしないでくださいという未だコロナ禍の殺伐とした空気を感じる。ヨーロッパの熱波、大雨、台風の大型化と線状降水帯、その原因を造ったのは人間、どんどん次の世代に渡す地球が壊れていく。

 

東京では一晩で一組の友人たちとしか会えないのがもどかしい。そして今回の仲間との写真を撮ってなかったのは残念だった。

 

今週のMちゃん

プライベートな付き合いのためイニシャルの猫のMちゃんの今週の写真です。

この極暑の中でも、毛皮を着て過ごす頑張り屋である。

 

古町芸妓 +エピソード 34

昔、その地方の人口は、どれだけ人を養える食べ物があるかで決まったようだ。北前船の寄る港があり、お米の取れた新潟県は豊かな県であり、明治の初めに東京に抜かれるまで日本で一番人口の多い都道府県であった。そして京都の祇園、東京の新橋と並び称されてきた花街、新潟古町があった。古町では芸者さんのことを芸妓さんと呼ぶ。日本最古の洋食屋であるホテル・イタリア軒の離れにある「蛍」のお座敷で先日は日頃触れることのない芸妓文化を、お手ごろな値段で体験できる催しがあった。食事の後、歌踊り、お座敷芸。お座敷芸で芸妓さんに勝ったら「いい男には弱いので」と、さすが芸妓さんはお客さんを喜ばす接待業でありエンターティナーでもある。お世辞でも「今度お座敷行ってみょうかなぁ~」と鼻の下を伸ばした一刻でした。いやいやその手は桑名の焼き蛤。

 

エピソード 34 マイナンバーカード

 

以前にも触れたが、日本のマイナンバーカードに当たるのがアメリカではソーシャルセキュリティーカード(S.S. CARD)というカード制度。日本で国民にマイナンバーカードを持たせるのに、こんなに手間取っているのはアメリカでの制度を知る人には信じられない日本政府の手際の悪さである。普及させるために一人二万円分のポイントをあげたのに、それでも普及しないのは義務でないからであり、無くても暮らせるからである。普及を進めるのなら、今後はマイナンバーカイドなしには暮らせないようにしたらいい。

 

私がアメリカに行って長期滞在するために最初にしなければならなかったことはS.S. OFFICEに行ってS.S.CARDを発行してもらうことだった。それがないと、銀行に口座を開くことができなかったし、その後仕事に就くこともできなかった。日本でも、最初から例えば「3年後からマイナンバーを持っていない人は公的、社会的ないろんなサービスを受けられなくなります」と、決めれば何の問題もなく普及したはず。昔はアメリカでも借りたS.S.ナンバーで他人に成りすまして移民者が仕事に就くなどS.S.ナンバーが不正利用された話はあったが、今では悪用されたという話はほとんど聞いたことがない。

海外に制度を視察に行った国会議員の先生方は何を見てきたのであろうか。

 

調べたらすでに世界のほとんどの先進国は国民ナンバー制度をもって国民の情報を管理している。日本だけが情報の三流国に留まることはあり得ない。将来はすべての分野でデジタル化が進み事務のコストカット、合理化を図るのは逆行できない時代の流れであると思う。確かに不信感を与えない完成度の高いカードを提供することは政府の責任であるが、10年後、20年後の社会を想像してほしい。ここでいま抵抗しても必ず時間とともにそう社会になっていく。それなのに政府が『マイナンバーカードの取得は任意で、返納や再取得も本人の意思で可能」としたことは愚策だと思う。さらには最大2万円分のマイナポイントを取得した上で返納する人まで居ることに批判が上がっている。

 

「みんなで返納すればこわくない」。そんな文言が描かれたイラストで、マイナカードの返納を呼びかける投稿がツイッターで拡散されて、ラサール石井も6月26日に「私は本日マイナンバーカードを返納しました」と自慢話のように報告した。実際はカードを返納しても既に習得しているナンバーは残るので、まったく意味のない悪質なパフォーマンスとしか思えない。このポイントもカードの普及のため税金で賄われていたのだから非難を受けて当然。これでは質の悪い詐欺にあったようなもの。こんなことを許していては永久に目標の100%は達成できない。将来的に普及率100%にしたいのなら、これ以上の税金の無駄使いを避け、「マイナンバーを持たないと公的サービスを受けれなくなります」というくらいもっと強力に推進するべきだと思う。

旧三国街道をいく

6月19日から新潟県中越地方にある大湯温泉へ2泊旅行にいつもの3人で出かける。今回は2泊目が半額になるということで、2泊してゆっくりと回ることにして、朝9時に出てパークゴルフをするため、国営長岡丘陵公園のパークゴルフ場に向かう。テークアウトのホットモットでランチ弁当と飲み物を買って、やる気満々でゲートに着くと、なんと一か月に一日しかない休園日を引き当ててしまった。

 

予定を変えて南長岡の室町時代から酒造りをしている吉乃川酒蔵を中心にした醸造の町、摂田屋に寄る。ここは薬酒機那サフラン酒の製造元があり、こて絵蔵などを見学。

車で走り出すとFさんが途中の越後川口にもパークゴルフ場があるのを思い出してくれて、急遽川口のパークゴルフ場へ寄る。小さいが18ホールある。管理人のおじさんが一人ですべてこなしていて、がらがら。使用料500円でクラブを貸してくれて一日中使い放題。コースはフェアウエーが狭く、あまり芝の刈込が行き届いておらずラフが多い。我々より上の世代ではやったゲートボールが今は廃れ、パークゴルフの人気が出てきていて、最近新潟市周辺にも新しいパークゴルフ場が競馬場の近くにオープンするが一日1500円と聞いた。その他にも新潟市内には数か所のパークゴルフ場があるが長岡の国営コースには規模も値段の安さも遠く及ばないようだ。パークゴルフは普通のゴルフより簡単にクラブ一本とボールを借りたら老若男女関わらず安く誰でも楽しめるのがいい。

ビールを飲みながら楽しい時間。O君が「距離はいいけど、方向が悪い」だのと悪態をつくので「貴方は方向はいいが、性格が悪い」などと言い返し、楽しくプレー。3コースプレーして大湯温泉ホテル湯元へ向かう。川口で信濃川と魚野川が合流し、魚野川沿いに旧三国街道は江戸へと続く。魚沼市の小出から魚野川から外れて山道に入り大湯温泉に着く。我々3人でのこのホテルの利用は3回目になる。温泉に入ってからの夕食は、ビュフェスタイルの食べ放題、飲み放題がここの宿の人気プラン。

翌日今回のメインでもある清津峡渓谷トンネルへ向かう。私がここ毎年スキーに来ている湯沢の石打スキー場のそばを通り、山岳部にある清津峡は昔からある天然の美しい峡谷で国の名勝・天然記念物に指定されている。さらにその風景を見るために2018年にアート作品『Tunel of Light』として改修され、全長750mのトンネルがリニューアルされた。このトンネルの建設に関わった会社にO君の息子の嫁さんが働いていて、無料入場券をもらっていたので3人分の入場料をセーブ。途中の見晴台で外の『柱状節理』の景色を見ながらトンネルの先端部に行くと浅く水をはられた水盤鏡がある。この人工の水面に映る風景が大人気で多くの観光客を呼び込んでいる。

            いざトンネルへ

第1見晴所からの風景

              第二見晴所

幻想的なトンネル内部

第三展望所

光の洞窟『水盤鏡』

その後、八海醸造の経営する『魚沼の里』へ。日本酒八海山を造る八海醸造はお酒だけでなく今や梅酒、焼酎、甘酒、ウイスキー、ビールまでつくる各種の醸造施設があり、新しくできた敷地内には醸造所の外に、冬の雪を保存して雪の冷気で貯蔵建物全体を冷やす雪室、資料館、レストラン、菓子処、おにぎり屋などが点在して一大観光拠点となっていた。日本酒、梅酒を試飲させてもらいながらO君は八海山の説明役を相手に自分の作る自家製梅酒のウンチクを語る、、、誰か止めてくれぇ。

江戸時代のベストセラー「北越雪譜」を書いた鈴木牧之の記念館のある牧之道路

八海山「魚沼の里」のビール醸造所にて見学、試飲

雪を描いた故郷高田出身の画家富岡惣一郎の美術館が八海山の麓にある。そのトミオカホワイト美術館を見てホテルへ戻り、ふたたび、豪華な食べ放題、飲み放題。Fさんは飲まないし、勿論、私とO君は節制をもってお酒を嗜む程度、、、では済まなかった。何せ飲み放題なのだ。

トミオカホワイト美術館の前庭から八海山を望む

翌日は再び帰り道にある先日閉まっていた国営長岡丘陵公園のパークゴルフ場にリベンジに行く。ここは国営なので値段は安く、Fさんが年間駐車券を持っているので、わずか210円で一日中パークゴルフができる。地元の長岡市民は近くて毎日来ている人も居るという。同じ税金を納めている新潟市民のため新潟市にも是非国営パークゴルフ場を作って欲しいものだ。

5ラウンド回って帰路につく。

 

帰って、母に電話をしたら、今回訪れた魚沼市小出地域には母方の祖父が持っていた蚕種製造業をする会社があり、戦前には県内に販売する蚕の種を保存するための雪室をそこに持っていて、祖父は頻繁に通い、母も子供のころ訪れたことのある縁もゆかりもあった土地であった。祖父が八海山より古く戦前に小出に商業用の雪室を持っていたのは知らなかった。

今回も盛だくさんの内容のいい旅であった。

関西の旅・後半

 神戸新幹線駅のすぐ隣のANAクラウンプラザホテルの部屋からは異人街方面と六甲山の端がみえる。

翌日はウオーターフロントを散策するが、山陽新幹線の新神戸駅と、JR山陽線の神戸駅はけっこう離れていて、新神戸である山の手の駅は新幹線なのにかなりの田舎であった。こちらに戻らず山陽線駅から姫路に向かう方が無駄がないが、戻らないので荷物を持っての移動となる。私の荷物はリュック一つとショルダーバッグと傘。Sさんはさらに小さなリュックだけと身軽である。私のリュックは同じ大きさのローラーのついたキャリーケースより遥かにたくさん入る。ぎゅうぎゅうに詰め込んだリュックの重さは10kg近くあり、だんだんとリュックの重さが肩に食い込む。Sさんにお土産分の荷物を少し持ってもらう。

 

地下鉄で三宮に行き、歩いて神戸の中心街を散策。旧居住地の洋風建築など、異国情緒あふれる神戸はさすが聞いたと通りのおしゃれな街並み。もう1995年の阪神・淡路大震災の跡もなく、きれいになってちょっとカナダのバンクーバーの街並みを思わせる。今日は晴れていて歩いていても熱い。私は忘れないよう雨傘を持って歩き、Sさんはサングラス。カリフォルニアでは必要不可欠のサングラスも日本では夏でもほとんどサングラスをかけた人を見ない。ここ神戸の街はかっては山口組の本拠地として多くのサングラスをかけたヤーさんが行き来していたと思われるが、怖いもの知らずのSさんはサングラス姿で闊歩する。いちゃもんつけらたら重い荷物を捨てて逃げようね。

長くアメリカで暮らした我々はホテルなどのエレベーターでもレディーファーストの気持ちはあるのだが、日本に帰って狭いエレベーターの出入り口に立ちふさがってのレディーファーストは、迷惑なお年寄りに過ぎないことに気づき、最近は状況を読んでケースバイケースにしている。

 

ウオーターフロントを歩き、前日ハーブ園から見ても見つなけられなかった神戸ポートタワーを探すが目立つ建築物のはずなのに見あたらない。公園で掃除をしていた人に聞いたら「今ちょうど改修中で解体再建工事をしていまして、あそこに見える塔がそうです。」と言われ、みれば本来の半分くらいの高さのカバーをかけられた工事中の塔が有る。これではどこから見てもわからなかったはずと納得。

左が改修中のポートタワー

メリケンパークを歩き、オークラホテルのロビーで一休み、客のような顔をしてウエルカムドリンクを探したが、なかった。ハハハ。

南京街でビールと昼食。中華街のラーメンは400円と安い。しかし、頼んだ担々麺セットは上げ底ならぬ浅い平底の器で、見た目ほど量は入っていなかった。

南京街のメニュー

歩いて元町の駅に行き山陽本線の在来線で姫路に向かう。

姫路の駅から北へ700mくらいの正面に姫路城がみえる。

駅でSヤンと会い、駅とお城の中間くらいの絶好地にある彼のマンションへ。少し休んでお城へ観光にいく。

ここは国宝であり、奈良の法隆寺とともに日本最初の世界文化遺産になった建物で、大天守閣を中心にほぼオリジナルの3つの小天守、櫓、塀、石垣、堀、門など古い建築物が数多く残っている。6階の大天守閣まで登り、城下町を見下ろしお殿様気分を味わう。しかし、天守閣は最後の砦、普段は3の丸に暮らすお殿様がここまで追い詰められた時は、絶体絶命の不利な戦況の時でそう住み心地のいい場所ではない。


姫路の城下町は戦災に会って焼けた後、再興され道路は広くて美しい街並みになったが、お城は焼夷弾が落ちたのに不発で焼けずに残り、奇跡のお城と呼ばれたそうだ。それでもこの立派なお城を整備して後世に残すために大変な努力があったはず。姫路城は今まで見たお城の中でその規模とオリジナルの重厚な存在感は圧倒的であった。

お城の隣にある日本庭園・好古園は迷路のような庭園が続く。

その日はSやんのパートナーを交え、Sやんに夕食をごちそうになり彼のマンションに泊まる。姫路での費用は全部アップル株で財を成した彼が出してくれた。Sやんとの出会いはともに20代にLAのリトル東京であった。そして一緒に2か月間中米を旅し、ハリウッドのアパートでルームシェアをして、学校に通いながらベバリーヒルの近くの、センチョリー・プラザホテルの中にあった高級日本レストラン大和で働いた。その大和でSさんとも出会ったのであった。

 

Sやんのマンションは駅とお城のちょうど中間くらいの立地条件のいい場所で、生活圏は歩いてどこでも行ける。20年前から持つアップル株の高騰で働かずに裕福に暮らしている。部屋の中には観賞用植物、部屋を取り巻く水槽、トレーニング設備が所狭しと置いてあり、健康志向で食べ物と運動には彼なりのこだわりがある。しかし、道ばたに生えて居たら気づかないようなプラントが一鉢何十万もしたり、ベットのような大きさのルームランナーやジムなみのウエート設備など驚く物ばかり。

 

翌日は姫路市の裏山の上にある書写山に行く。ケーブルカーで上ると西の比叡山と称される円教寺を中心にした大規模な寺院群がある。昔、武蔵坊弁慶が修行をした寺だと言われていてべ弁慶が使ったという学問所や食堂、机が残されている。またその一角の山寺はトム・クルーズの「ラストサムライ」のロケ地として使われ、確かに映画の中で観た覚えのある建物がある。売店の店員さんによるとトム・クルーズは撮影の間、我々のようなケーブルカーでなくヘリコプターで山頂へ通っていたそうだ。

ラストサムライのロケに使われた建物

帰ってから、歴史好きの弟に電話すると、姫路城と故郷の高田城の関係を教えてくれた。江戸中期から最後まで高田藩を治めた高田城主榊原家はもともと姫路城の譜代大名であったが、将軍徳川吉宗の倹約令に従わず贅沢を尽くしたことで怒りを買い、姫路藩から越後高田に国替えとなった。立派な天守閣のある姫路城から、もともと石垣もなく、天守閣を作ることもなかった高田城への転封はさぞかし、都落ちの感があったことだろう。 

しかし、故郷のために言っておけば高田城に天守閣がないのは、そもそも天守閣の役割は、最後の防御施設としての武器庫、食料庫であり、高田城はもともと格式の高い徳川家康の六男忠輝の居城でありそのころはすでに天下泰平で天守閣の必要な乱世ではなかったからである。

数年後、中国の習近平は自分の時代に台湾でロシアと同じことをしようとしている事を我々は忘れてはならない。ウクライナ、コロナ、物価上昇と今こそ乱世の世の中である。

 

旅から帰って12日にコロナワクチンの6回目の接種を受けた。日本各地には外国からの観光客が大勢何の制限もなく入りつつある。中国ではすでに第9波が広がり、今月中に6500万人が感染すると予測されている。日本でも当然感染が広がってくる。今のとこ日本の重症者、死亡者が他国より少ないのはワクチンの効果であるという。しかし感染者の総数が増えれば、日本は超高齢社会で感染者数に比例してが死亡者も増えてくる。その犠牲者はほとんどが高齢者で、高齢者や基礎疾患のある人は新型コロナワクチンの接種をというのが厚生省、尾身元会長、専門の医師たちの意見である。これもまた自分を守るための危機管理だと思う。

 

今回台風に対する危機管理をしながらの旅は、前半は緊張感のある旅であった。初めて訪れる土地がほとんどであったが、様々な人に助けられ、無事に楽しい時間を過ごして帰ることが出来た。

お世話になった皆様、ありがとうございました。

 

台風の中を関西へ・前編

スキーシーズンが終わって、しばらくはブログのアップデートがなかったが、その間も温泉一泊旅行、食事会、アメリカからの知り合い夫妻の新潟訪問など忙しく過ごしていた。

 

そして、最近買い替えた自転車は、ルイガノのミニベロと呼ばれる今はやりの20インチの小型タイヤで電動ではないbicycle。車体は軽く、トルクが高く、平地ではスイスイと進み、坂道も軽いペダリングで登る。タイヤが小径なので、慣れるまでハンドルの不安定さが少し気になるが快適に走れるのが良く、晴れてればサイクリングにいい季節である。

5月には新潟市でG7の財務相・中央銀行総裁会議が私のマンションからそう遠くない朱鷺メッセを会場として催された。数日前から厳しい警備体制がひかれていた。私は今年から「新潟おこめプロジェクト」という母子家庭にお米を届けるボランティアをしていて、今回は5KGのお米のほかに大きな段ボール箱に入ったコロナ用に用意されていた品物の寄付を受けた物も一緒に配達した。

 

その配達日とG7の会期が重なり、私の配達管轄地域はまさにG7会場のすぐ近くにあった。配達に行くと新潟県警、千葉県警の警察官で蟻も通さぬ物々しい警備体制がひかれている様にみえたが。これは職務質問なるものを受けてみる絶好のチャンスと、荷物を両手に持って警備員のすぐ前を2度通るが、よほど私の人相が良いのか誰も声をかけてくれない。聞かれたらどう答えようかと用意していたのに少し残念。

 

さてさて、6月になり、台風2号が上陸というタイミングになってしまったが、かねてより計画していた関西への旅行に出かける。伊豆からのSさんと落ち合って関西を観光の後、最終地は二人のアメリカでの共通の友人であるSやんを姫路に訪ねる旅である。今まで方々に一緒に旅したSさんは、私の人生で最も頻繁に一緒に旅した気心の知れた旅のパートナーでもある。

 

6月2日に出発の予定はかなり前から決まっていたが、出発の日が近づくにつれ、大型の台風2号が勢力を増して進んで来て、予断を許さない状況になってきた。気象庁の天気予報では関西を中心にかなりの大雨になりそう。新幹線が急にとまるのが一番大変な事態。風はたいしたことないが、過去の雨による新幹線運休のデーターを見る。2日前の状況で出発日の6月2日は大雨で新幹線が止まると予想して、急遽、出発の日を1日早め6月1日に変える。

 

すべての予定を中止したらキャンセル料がかかるし、次は何時予定を立てられるかわからない。徹底した危機管理をしながら旅を決行する方が面白そうで、京都まで行けば何とかなりそう。幸い京都では台風に備えて早めに観光をやめて宿をキャンセルして帰路に就く人が出だし、普段では考えられない駅前のホテルに前日に空きが出ている。直接電話をして予約する。一日早い新しいスケジュールでの旅が始まる。

 

この判断が功を奏し全く問題なく京都へ着く。そしてその翌日2日は予想通り東海道新幹線は昼前からほぼ全面ストップとなる。もし2日の朝出発していたら何処かで足止めを食らい、厳しい状況で一日を過ごさなければならなかった。ラインで友人たちからは「さすがにしっかりした危機管理」とお褒めの言葉をいただく。

 

夕方に京都に着き、2日は一日中大雨で、駅周辺の移動にとどめて一日をすごす。部屋から見える駅のホームには運転を取りやめた新幹線が2列車止まって動けずにいる。一日出発が遅れていたら私も何処かで立ち往生して一晩車中でどこかの駅で過ごさなければならないところであった。京都駅周辺のレストラン、飲み屋さんはどこも美味くてリーズナブルな値段。

 

駅周辺には何組かの中学の修学旅行生がい2組ほどと話してみた。神奈川と東京からの修学旅行を終え、2日に帰宅するはずであったが新幹線が止まってしまい、先生方がもう一晩の宿の確保に奔走中とのこと。一組は決まったらしいと子供たちが喜んでいた。これも事前に情報を得て調べていたら新幹線が止まることが分かったはずだが駅まで行って初めて事態を把握したようだが、現場の教師は情報をチェックする時間も余裕もなかったことだろう。現地に来ない後方部隊がその役割を担っていたらもっと危機管理が適切にできたことだろう。 しかし若い子供たちは悲壮感はなく、もう一泊出来て嬉しそうであった。これもまた修学旅行の思い出となるのであろう。

 

3日から名古屋の友人のところで過ごしていたSさんが合流して、一日観光バスツアーで京都見物。京都観光は久しぶりである。清水寺、嵐山、天龍寺、竹林、三十三間堂、平安神宮など、各場所で集合時間が限られた自由観光が基本で、観光バスツアーは意外と時間がなく忙しい。雨上がりの京都は空気が澄み気持ち良かった。このツアーは別名『置き去りツアー』「もし集合時間に遅れたら、そこがとてもお気に入りでお客様のすぐに離れたくない場所と判断して、バスは待つことはなく出発します」という。

清水寺への道は見えないくらいの観光客で埋まっており、境内にある音羽の滝は向かって右から長寿、恋愛、学業が叶えられる水となっているが、滝の裏側から柄杓で受けるので、裏側からは左右が逆になり間違える人も多いらしい。その柄杓であるが、このご時世で使用後には紫外線消毒がなされるハイテク参拝となっていた。

嵐山渡月橋の川は増水しており、竹林の道は林は見えても道は観光客でごったがえ。京都は日本最大の観光地であり頻繁にテレビで観る機会があるので想定内、想像通りの名所巡りであった。

 

 

神戸に移動する。神戸の街は東西に延び、山の手から海まで歩いても直線なら2kmくらいしかない。予約した新幹線駅前のホテルに荷を預け、まずは近くの異人館街へ。通りがかりの高齢の女性が異人館への道を教えてくださり、さらに目の前にある「このロープウエーで山頂にあがると神戸ハーブ園があってとてもいいとろろですよ」と教えてくださった。

かっての外人居住区は何棟かの洋館が整備され観光スポットとして入場料をとって公開されている。受付の周辺の女性が、寄っていきなさい、見ていきなさいと夜の街のように誘いをかける。そして私らが入らないと分かると、急によそよそしく愛そうがなくなる。ボランティアのガイドの男性によると、異人館のほとんどは観光会社が運営していて、中に5棟だけ半分神戸市が運営している建物があり、そこはそんなことはないはず、さらにラインの館は入場無料だと教えていただきラインの館へ。

そのあと、すれ違った地元のおばあさんに聞いていた新神戸駅近くのハーブ園へロープウエーでのぼる。これが思いの外よかった、教えてくださった地元のおばあさんありがとう。観光地はこうでないと。ロープウエイを降りると神戸の街並みがみえ、花がいっぱい咲いていて、様々なハーブが植えられている。ハーブの香りを一つ一つ嗅ぎながら移動する。その山頂で飲んだ冷たいドイツビールがとても美味かった。

一人暮らしが多くなると独り言が多くなる。「そんな馬鹿な」と言ってたのに、風景を見ながら私が離れて見ていると、何やらやたらうるさい独り言のSさん、私が後ろにいると思って話しかけていたのだと言い張る。

途中駅まで花と風景を楽しみながら降りてくる。その途中の風景と雰囲気が、とてもよかった。

一番手前がANA ホテル

 布引の滝

この冷たく冷やされたドイツビールは美味かった

ビルの谷間にある2段重ねの丸い塔が改築中のポートタワーであった

ハンモッグにはまって起き上がるのに苦労

チェクインして夕食に出るが、この新幹線駅の周辺に繁華街はなくネットで調べた居酒屋に途中で何人もの人に方向を聞きながら、やっとたどり着いたら閉店していた。ネットの地図も方向が分からないと時には役に立たないものである。結局ホテルに戻り地下にあるネパール料理店へ。最初食べ放題のプランを選んだが終盤になって個別に頼んだ方が安いことに気づき交渉して変更してもらう。旅慣れた我々はしょうがないでは済ませない。

 

神戸・姫路編へ続く

春スキーと桜+エピソード33 TV撮影秘話

今回は主にアメリカの友人たちのために、日本の桜の写真を多く貼ってみました。

 

例年より暖かい日々が続き、桜の開花も早い。しかし、新潟では咲き始めから満開までは一週間位かけてゆっくりと進んだように思う。

新潟市の桜が満開になった4月2日,白山公園、信濃川沿いの桜を観に行く。週末の桜の下は家族連れでいっぱいであった。

 

私はコロナ禍でも例年、裏の公園で仲間と小規模な観桜会を開いてきた。今年も桜の咲き加減と、天候を見て開催を4月3日に決め、友人とゲストの5人で食べ物,おつまみを持ち寄っての「花よりお酒」の会を催す。3日はドンピシャの満開の桜と青い空。コロナも幾分安定し、久しぶりの飲めや、話せやの楽しい時間であった。


そして5日の朝早くミーちゃんもつれて高田に帰郷。家内とミーちゃんを高田で下し、私はそのままロッテ新井リゾート・スキー場へ向かう。ここは新潟のスキー場の中でも一番雪の多い場所で春の今の季節でも上の方にはまだ十分な雪が残り、ロケーションも高田からは妙高より近い。もともとソニーが80年代に開発したスキー場で、その後10年ほど閉鎖されていたがロッテが買い取り再開発し、ロッテアライリゾートとしてホテル、温泉、レストラン、スキー場を運営・営業している。私はこれが3度目。

値段が高いのがネックであったが、春先のシニアは3800円と、だいぶ周辺のスキー場に合わせた料金になっていた。駐車場に着くとすでに高校での同級生H君夫妻が滑っていて、ゴンドラ降り口で合流。

何とか天候も持ってくれて、雪のある上のコースで滑る。コンデションは春の荒された雪質であるが、これが今季の滑り収めであるから十分である。途中からポールが立てられていたコースが空くと、ここのゲレンデは荒されていなくて滑りやすく満足のコンデェションであった。1時過ぎにあがり、ホテルのレストランで割引券を使ってカレーを食べ、今日のもう一つのハイライト、高田城址公園の観桜会にむかう。花見の季節は車の駐車が大変であるが、私の実家は公園まで歩いてすぐ。実家ではなく近くの姪の処に車を停めてH夫妻と桜を観に行く。

幾分遅いかと思っていたが、今年はこれまで雨風が少なく、まだ今日は花見としては散り始めのいいタイミングである。コロナで数年出店、飲食を禁止されていた公園内も今年は元の賑わいを見せている。お堀の周り、公園の中を歩いて日本三大夜桜の故郷の桜を楽しんだ。

ロサンジェルスにも気候に合わせ改良された桜が日本から贈られ、何か所かで見ることができた。しかし、日本の様な大木の桜はなかったが、今はどうなっているのであろう?永いアメリカ暮らしから帰って観た日本の桜は格別であった。とりわけ昔と変わらずに咲き続ける故郷の桜は感動的に美しく有難い存在である。

 

世界一気候が良いと言われていたLAでも今年は低温で雨が多く、初めて平野部に雪が降ったと聞いた。マンモスは今の季節でも新雪がつもり2011年の記録を破る積雪量になっている。ますます不安定な世界気候である。

 

久しぶりのスキーで、だんだんと体力の衰えを感じる。しかし、先日101歳の母が選挙に行ったと言う話を聞けば、もっと体を動かして頑張らなければと思う春の日である。

 

エピソード33 TV撮影秘話

1980年代中頃と思うが日本で「金曜日の妻たちへ」通称「金妻」というドラマが放送されていた。そのころ、金妻のアメリカでの撮影があり、コーディネートをした友人から連絡があり、「日本からのテレビドラマの撮影でトラックとトラックドライバーを手配してもらえないか?」という要請があった。その時の条件は白人のドライバーで、砂漠で道路わきに倒れていた日本女性を助けて街まで送る、と言う若干セリフもある役と言う事であった。

 

港に出入りする弊社のローカルドライバーは土地柄メキシコ系のドライバーが多く、白人のドライバーは少ない。一方、全米を走るトラックドライバーはほとんどが白人であったので、深く考えずに、全米を走るドライバーから、ちょうどその辺にいる白人で撮影の為少し演技が出来る人というドライバーを実際に見ることなくピックアップしてロス郊外のパームデールの砂漠地帯に送り撮影隊に合流させた。アメリカでは仕事上で人種的差別をしてはならないので「白人の」と言うのは微妙な言い回しになるし、どんな顔かより白人のドライバーであることが絶対条件であった。

 

撮影は無事に済んだと聞いていたが、その後この話には続きがあり、それから1週間後くらいに、そのドライバーが弊社の敷地に荷物を取りに来た際、私のオフィスに来て、「あの撮影のテレビドラマのコピーをもらえないか?」と聞いてきた、私の第一声は「あなたが、あの時撮影に参加したドライバーか?」であり「私も見ていないのでコピーは無い」と言った私の顔は引きつっていたと思う。

なぜならば、そのドライバーは一言でいえばとんでもない悪人面で、歯並びも悪く映画「ホームアローン」に出ていたドロボー役にそっくりの人相であった。私は出来あがってからの作品は見ていないが、女性を助ける正義の味方のドライバーのはずが、日本で没にならずあのドライバーでそのまま放送されていたのなら、あれは言い訳出来ない私のミスキャストであった。