赤倉スキー場にて + アメリカのマイナンバー制度

妙高赤倉スキー場へ17日から2泊3日のスキー旅行にきている。例年の地元高田の高校同級生OBのスキー仲間が集合、一日目は泊り4名、2日目が泊り5名、日中は日帰り組が1~2名加わる。

朝8時に新潟市を出発して、10時半に元デモンストレーター金子プロの経営する定宿金甚へ着くとちょうど黒部からH君夫妻が到着。チェックインを済ませて旅行割引キャンペーンの2泊分4000円を携帯のアプリを入れて電子マネーで受け取る。これがなかなか分かりずらくて時間を食った。

 

私は金甚で手配してくれた三日分のリフト券を受けとりゲレンデへ。今期は雪が少なく、駐車場の周りの雪の壁も例年と比べずいぶん低い。それでも長野県のスキー場よりはいいそうで雪がなくてゲレンデにカーペットのように人工雪を敷いてかろうじて維持をしているスキー場もあるという。スキーヤーも少なくゴンドラは経費削減のため、週末しか動いていない。オーストラリアからのスキー客が少し戻っているが、コロナ前と比べると週日でもあり、ゲレンデはまだまだガラガラの状態である。

リフトで上に上がり、滑り始める。K君I君と合流して何本か滑って昼食。ゲレンデのレストランは「えーとる」が改築中で開いておらず、「めいぷる」のみの営業。それでも客が少ないのでそんなに不便は感じなかった。食事中はマスクなしであるが大声を避け会話の時、時たまマスクをする程度。1時15分から金子プロのレッスン。3時まで滑って金甚へ。

金子さんのレッスン

金甚さんでは幸い従業員もコロナに罹った人はいないという。しかし、そろそろ知り合いにも感染した人が出ている。ほとんどが孫などからの家庭内感染。幸い皆軽い症状で回復しているが、コロ感染者で亡くなっている人の93%は70代以上の基礎疾患ありの方々なので重症化が少なくなったと言われても心臓に大動脈肥大の基礎疾患を持つ私は気を付るに越したことはない。

今日の宿泊客はH夫妻とK君と私、私らの他には昼間一緒にレッスンを受けた神戸から金子プロの一期生徒であったという3人のご婦人方が宿泊。明日帰るという彼女らは神戸まで運転を代わりながら片道7時間のドライブだと言う。まずは夕食前に温泉に浸かる。金甚の温泉はかけ流しで、加水、加熱なしの少し暖かめの癒しの温泉で気持よい。

部屋は今回は基本個室を用意してもらっていて、食後、私の部屋で窓を開けて、空気清浄機をつけて軽い飲み会。

 

二日目は地元からいつものI君と今回初めて参加のK君。富山の黒部からは同窓生ではないがH君の友人のM医師がゲスト参加。10時からそろって金子プロのレッスンを受ける。今回のテーマはターンに入るきっかけとして山足を少し先行させその内側にいかに早く乗って沈み込んでテール加重でスキーを走らせていくか。午前と午後のレッスンでその過程をやって見せ、説明しながら繰り返してくれる金子さんの教え方は分かりやすい。分かっているけど難しい。「皆さんのやろうとしていることは正しいです」と言われながらだんだんと良くなっていく。

 

今回受けた旅行割引キャンペーンのポイントを使える場所は少なく、今日はポイントを使って贅沢にゲレンデの中にある赤倉観光ホテルでのコースランチ。初めて入ったアカカンは雰囲気のいい高級感がある内装。カフェテリアは混んでいたが我々の入ったメインダイニングはガラガラ。天候が悪くせっかくの風景をレストランの大窓から見れなかったのが残念。

朝のうち日が差していたが、午後からはどんどん天候が崩れ、視界が悪くなってくる。3時までレッスンを受け濃霧の中を下りて、ホテルに戻る。

19日は夜半に少し降った雪が止み、朝から青空。荷物の整理をしてゲレンデに出るころには今年初めて見る雲のない青空。5cmほどの積雪は十分ではないが最高のスキー日和。宿泊した5名と日帰りのI君で10時から1時間の金子さんのレッスンを受ける。シニアでもスキーは上達し続ける不思議なスポーツ。やっと皆の滑りが安定してくる。ランチを食べて、1時半に解散して、高田の実家に寄り母の顔を見てから新潟に帰宅する。


コロナ禍でのスキーに関しては、屋外スポーツであるスキーでは罹ることはない。今回は仲間に内科医のM先生もいて、基本は個室を用意してもらった。おそらく部屋割りをなるべく少人数にして、同室者に感染者がいなければこまめな手洗いと換気で感染をある程度は制御出来るのかと思う。一番の予防は感染の可能性のある方は事前にドラッグストアで買える簡単検査をして、陽性であれば参加しないことが大切かと思う。

 

今週末から来週にかけ2度寒波が来ると予想されているが、スキーヤーを喜ばすほどの積雪は期待できるのであろうか。月末の30日からは湯沢に行く予定を立てているが、今期の北日本以外のスキー場ではスキーシーズンは早くに終了するのではないかと言われている。短いスキーシーズンを予測して、2月はスキーの予定がいっぱいである。スキー場も来月は少しは混んでくるであろう。

 

帰りの車中で新潟市の古町にイノシシが出て女性が軽傷というニュース。古町は昔からの新潟の繁華街であり、古町13番地は外れではあるが家からも近い。イノシシの足で道草を食わずに猪突猛進したら5分で私の処や、古町の中心街来れるだろう。こんなところにイノシシ、今の世の中、今までの当たり前が通用しない事が多い。コロナがそんなに長く続くはずがない。戦争になるはずがない。

 

エピソード 30

日本のマイナンバーカードに当たるアメリカのソーシャルセキュリティーカードを私が収得したのはアメリカに暮らしてすぐであった。アメリカに住むようになったら学生でも銀行の小切手口座が必要になり、口座を開きに銀行に行ったらソーシャルセキュリティーナンバーを取ってくるようにと言われて取りに行ったのである。

 

そのナンバーは日本のような各市町村の扱いではなく、連邦政府が発行する全国的な公的証明書類でありナンバーは一生変わることはない。このナンバーは個人の収入を記録する身分証明番号であり、合法的な金融活動に参加するには不可欠で銀行口座、投資、就労、税金申告・納税、年金など政府相手の様々な場面で要求される。日本に帰国してすぐに故郷上越市でマイナンバーカードを収得した私は、新潟市に正式に転入したとき、改めて新潟市で新しいマイナンバーを申請し収得しなければならないと言われて、これでちゃんと国として管理できるのであろうかと驚いた。

 

さらに最近、日本のマイナンバーカードを入れるナンバー部分を隠す機能のあるカードカバーが、ナンバーを知られてもすぐに悪用できないので、カバーの提供を中止するとニュースになった。こんなことをしているから国民の半分は個人情報が洩れて悪用されるのではないかと疑心暗鬼になり、促進奨励金2万円をあげると言われてもマイナンバーカードを申請しない人が多いのだと思う。もっと早くにマイナンバーカードが悪用されることはありません、カードをもって国民健康保険、銀行口座と連動させないと健康保険も、銀行口座も使えませんとしたら、こうまで税金を無駄に使って申請を促す必要はなかったと思う。

 

もう一つアメリカでは金融関係の会社が情報を共有しているクレジットスコアという日本では聞かないスコアがある。満点が850点で信頼度を数字化したものである。日本でもクレジットカードを申し込んだが理由の説明のないまま拒否されたということがあるから同じような信頼度の情報を金融機関が共有していると思うのだが、アメリカでは自分のクレジットスコアを知りたいと思えば簡単に調べられる。

https://manekai.ameba.jp/creditcard/21495100014869

銀行口座を持てるようになると、クレジットカードが持てる。自己破産をした人でなければクレジットカードの発行を拒否されることはほとんどない。何せ私の場合、学生でも限度額300ドルの最初のクレジットカードがつくれたのである。その後、カードを使っては期限内に返済を繰り返し、就業して安定した収入を得て、車のローンを完済し、家のローンを滞ることなく払い続けて完済すると、それが信頼度となりクレジットスコアは上がっていく。長い期間の家のローンを滞ることなく払い切ると、その人のもとにはカード会社の方からカードを持ってくれとセールスが殺到することになる。私は300ドルからの長い道のりであったが、こうしてアメリカの社会経済は回っているのである。

 

ということで、日本の一連のマイナンバーカード騒動はアメリカで暮らしたことのある人にとっては日本政府の不甲斐なさであり、反対する人は後ろめたい人か過剰反応する人と思ってしまう。マイナンバーはアメリカの制度を参考にしたと聞いたが、視察に行った国会議員は何を学んで帰ったのか?会話も不自由な国会議員が役に立たない情報を得るため税金を使って観光的視察に行くならアメリカに暮らしたことのある私のような国民に意見を求めた方がはるかに安くて役に立つ情報を得ることができるはずである。私ならボランテアで協力します。国会議員の視察よりはるかにコストパフォーマンスが良いと思うのですが。

 

今週のミーちゃん

女の子らしい首輪にチェンジ

 



 

Wet Snow &エピソード29

年明けの最初のスキーで、8日に今期3回目の胎内に行ってきた。新潟市内は朝から雨。それでも山に行けば雪になる予報であった。駐車場までは雨であったが、滑りだしたらみぞれに変わった。成人の日の3連休の真ん中の日曜日とあり、雨の中を家族連が大勢来ていた。雪遊びが多いのか全面オープンしたリフトラインは思いのほか混んでいない。正月から天候が悪くて屋外での運動をほとんどしていない。慣らし運転のつもりで丁寧に滑りる。

私のかってのホームグラウンド、CAのマンモススキー場からは2日間で2m近くのパウダースノーが積もったという知らせが届いている。一方、ここ新潟県の今年は里雪でスキー場の降雪は少なく、気温は高く雪は例年になく湿って重い。みぞれの中を滑り始めると昼頃には雪質は春スキーのようなべちょべちょの雪となった。

びしょびしょのウエア

リフトに乗ると湿ったみぞれがスキーウエアを濡らす。しかし、最近のウエアは中まで濡れない素材で作られている優れもの。革製のグローブだけがびしょびしょになったので、帰ったら買い替えなければと思う。ゲレンデはほぼ全面的に開いて先週閉まっていた上の方の風倉高原第一ペアリフトに行くと雪質もまずまずで気持ちよく滑れた。

奥のリフトに乗っていたら、雪の降るゲレンデを5匹ほどの猿の家族が横切っていき、ちょうどリフト上から見えるところで食事を始めた。ニホンザルは世界で唯一雪の中で暮らす猿。しかし、冬の山で食料を探すのは大変であろう。わずかにある木の芽を食べている。

雪の中のおサルさん一家

食料事情といえば、かって日本は世界中から強い円で最高級の農産物を買い集めていた。私もアメリカから日本へ輸出する農産物の荷動きに係わっていたが、オレンジ、サクランボ、メロンなどは一番いいところはアメリカ国内向けでなく日本のマーケット向けに輸出されていた。そして現在は、最近の円安で日本が世界中で穀物、海産物、果実、食料の買い付けに負けているとニュースになっている。マグロの買い付けに中国の業者が豊洲市場にきていて、多くのマグロが買われて中国に送られている。

 

これからは日本で今までのように美味しいものが食べられる保証はない。大農業国であるウクライナからの小麦の出荷が減り、酪農の飼育に使う餌が値上がりし、世界の人口は増え続け食料の取り合いとなり、食糧不足になりつつある。いまの日本の食料自給率はわずか38%である。お金で食料の争奪戦をして居る間は良いが、武力、暴力で生きるための争奪戦が始まったら今後世界中で食料をめぐっての戦争も起こりうるのである。一番最初に困る国は人口密度の多い食料自給率の少ない日本の様な国であろう。雪の中でわずかな食料をあさる猿の姿にこれからの人類の姿を重ねてしう。

 

エピソード29

日本に帰って警察官に街中で遭遇する機会の少なさに驚く。それだけ日本が平和なのであろうが、それは日本人の良識に委ねた平和であったが、今の不景気な社会では通用しないところがあり、テレビのドキュメントで見ると不景気になれば犯罪も増えるが、日本の警官は優しいので警察官に食って掛かったり、自分さえよければ良いという輩が捕まらずにやり放題をしたりしている感がある。

 

アメリカでは街中にいる警官の存在が犯罪を防ぐと、警官がお昼休みや休憩時間に制服のままお店に入って食事をする姿は当たり前の光景であり、わざわざ「制服姿でこんなことをしていていいのか?」と、おせっかいな告げ口する人はいない。

 

アメリカの交通違反は違反を認める認めないにかかわらずその場で違反切符が切られて、その後、管轄地域の交通裁判所から今回の罪を認めるなら$$$を支払うように、異議申し立てがあれば、何月何日にどこどこの交通裁判所に出頭して、異議申し立てをするようにと書面での連絡がある。異議申し立てがあればその旨を伝え、指定の日に裁判所に行ったら違反者と警官両方の言い分を聞いて裁判官がその場で有罪無罪と確定反則金の申し渡しをする。

 

私は学生の時一度だけ、異議を唱えて、交通裁判所に行ったことがあった。その時は相手の警察官が都合がつかず出頭出来なくて、その場合は無条件で私の勝ち。無罪で反則金も無しであった。結構相手の警官が来れないこともあるようで、時間と暇のある人はやってみる価値があると思ったのであった。

 

罪を認めると罰金を収め、違反ポイントが記録され、その後の車両保険代がポイントにより5年間上がるのである。人々はそれを知っていることで、無言の圧力となり誰もがルールを守るべき執行力になるのである。それが違法駐車であればチケットが車のワイパーに挟まれ、野外の公共の場でのアルコール類の摂取など軽犯罪でも違反切符が切られて同じプロセスになる。

 

アメリカの警官は西部劇の時代から、悪を取り締まるため、強力な権限を与えられている。拳銃を持っている犯罪者と遭遇する機会のあるアメリカの警官は自分の身と秩序を守るため、必要な装備と武力、体力を持ち合わせている。ギャングのように警官に逆らったら、それなりの報いが自分にかえってくる覚悟が必要なのである。激動の社会で多くの若者が警官に何らかの反感を持つ時代に育った私であるが、今では、警官を見たら「お巡りさん、ご苦労様です」と、最敬礼。すっかり体制側の人間である。

 

ところで、先日、ウォーキングがてら、寄居諏訪神社により、100円のお賽銭を入れ、賽銭箱の横にある200円のおみくじを引こうとしたら500円と100円硬貨しか残っていなかった。柏手を打つため財布を横に置いて500円硬貨を持って思案。ここは100円で勘弁していただこうかとか、事務所に行って両替をしてもらおうか、などと考え、結局500円を入れて太っ腹なところを神様にお見せしてお参りをして引いたおみくじは吉。全般的には良いことが書かれている。「焦りは禁物」「十分な睡眠をとり、体を休めましょう」「注意力不足に注意」フムフム、、と神社を離れて200mほど行ったところで、先ほどのおみくじの処に財布を置いてきたことに気づく。

急いで境内に戻ると中年の婦人が二人いて、何やら私の顔を見ているので、「財布の忘れ物に気づきませんでしたか?」と聞いてみると、まさに私の財布を手に持っていて、「事務所に届けようと思ったが、誰もいないので、警察署に持っていこうかと話していたとこでした」免許証を見せて本人の確認をしてもらい、受け取ることができた。

 

外国で忘れ物をしたら、よほど運がよくないと戻ってこない。外国からの観光客が日本で落とし物をしても、返ってきたとSNSで言われているそうだが、自分の身に起こると、やはりまだ日本には優しさが残っているのだなとうれしい気持ちになる。拾い主にお礼を言い、もう一度神様のご加護に感謝の御礼をすると、改めておみくじにあった「注意力不足に注意」が心に突き刺さったのでした。

 

今週のミーちゃん




謹賀新年 & エピソード 28

皆さま、新年、明けましておめでとうございます。今年もプログの配信をしていきたいと思いますので、宜しくお願いいたします。

 

例年になく早かった新潟市の雪も今は融けてしまっているが、年の明ける前に珍しく26日、30日と2度スキーに行くことができた。

初滑りの12月26日は雨の予報であった。しかし、新潟地区は佐渡に遮られた雲の流れが少しずれると、まったく天気予報が当たらない。特に今のような季節の変わり目には驚くほど予報が外れる。よって雨と予報されると、スキー場は雪になることを期待して出かけると、私の予想の方が正解のことも結構あるのである。

雪道を運転する経験値はかなり高いと思っているので雪の中の運転は厭わず、天候が悪くてもスキーに行く。今回も雨の予想に高をくくって出かけた私の予報が見事に当たり、スキー場に着くと霰が降り出した、その後も時たまお日様が顔をだす空模様でスキーには問題のない天候であった。

スキー場の駐車場で、スキー用のヘルメットのつもりでサイクリング用のヘルメットを持ってきたことに気づく。歳ともに、置き忘れなど本当にこういうミスが多くなった。友人のK.Sさんは先日電車に乗っていて人生で初めて若者に席を譲られたそうで「最近の若者も捨てたものではない」と言っていたが、きっと若者の前で私でも席を譲りたく成る様な物欲しそうな視線を送って立っていたのであろう。

 

サイクリング用ヘルメットは耳の部分のカバーがなく、頭の上部に空気が抜ける穴があるが、上からジャケットのフードを被れば問題なかった。

サイクリング用のヘルメットをした覆面スキーヤーでした

今期は胎内スキー場のシーズンパスを買っている。シーズンでシニアが1万8000円は安い。マンモスの一日分のチケット代である。胎内スキー場は新潟県の下越では規模、設備ともに一番まともなスキー場であり、一時間少しで行ける。

斜面は十分な雪に覆われていたが、まだ全面オープンではない。

新年前の30日にも2度目のスキー。天候は曇りで、若干高い気温、午後からはだいぶ雪が緩んできて、春スキーのようなコンデション。

 

先シーズンStockli の SLを買ったが、上級者、競技者からの評判はいいが、思ったより速いスキーでシニアの私にはアグレシブ過ぎる感じであった。そこで今期は同じStockli CXに買い替えた。買い替えたと言っても、Stockliは早くから予約をしないと日本ではなかなか手に入らない高価なスキーであるがタイミング的に急激な円安で価格が跳ね上がる前に予約できたのと、一年落ちの3度使っただけの2022年モデルは値段のあがった今年のモデルとデザインも同じであり、それほど値落ちしないでメルカリで売ることができたので上手く乗り換えることができたのである。

 

CXはSLよりだいぶ大人しくなったがSCよりはまだ少し速いスキーに感じるが、ターンが楽で切れるのでスピードコントロールできそう。他にアメリカから持ってきたSC とαがあるので今期は3本を使いまわしていこうと思う。

Stockli CX

すでに、1月2月はスキーの予定が埋まっている。スキーは屋外スポーツで、リフトも知らない人とは乗らないし、気を付けたらコロナに影響されずに楽しめるが、仲間と泊りで行くときは、直前の体調が悪ければキャンセルするつもりでいる。

エピソード 28

アメリカのホリデーシーズンはハローインが終わり11月になると一斉にクリスマスの飾り付けが始まる。多くの家が中から外までクリスマスの飾り付けがなされる。私もほぼ毎年家に2mくらいもあるクリスマスツリーを飾っていた。各地域にクリスマスの飾り付けで有名なストリートがあり、その通りでは家々が外から見えるように家の外を豪華に飾り付け、クリスマス前には見物の車で渋滞が起きる場所がある。

私もそういう有名スポットに何度も見学に行ったが、ある日本人の駐在の家族がそれを知らずにそんな地域に家を借り、一回目のクリスマスで驚いて肩身狭く過ごし、すぐに引っ越したという話を聞いたことがあった。大概それは年が明けた最初の週末に片付けられるまで続くのである。

 

アメリカの会社の年末年始は31日が半ドンで、元旦が祝日、それ以外は普通の日となるが、人々はカウントダウンで旧年が終わり、新年が始まる。家で過ごす人はテレビの前で、大勢の人と新年を迎えたい人は大晦日だけ遅くまでやっているレストランやナイトクラブ、繁華街の路上でその時を待つ。一番有名なカウントダウンはニューヨーク・タイムズスクエアのカウントダウンでその瞬間は世界中に放映されている。

 

しかし知っておかなければならないのはアメリカでは本土だけで東部から4種類、それにアラスカとハワイを入れると6種類のタイムゾーンがあり、カウントダウンは6回行われることである。テレビでは東部のニューヨークから始まり一時間ごとのカウントダウンが放映され、気分を盛り上げながらカリフォルニアのPacific Time Zoneの新年を待つ。

 

私はアメリカで結婚前は大体仲間と新年を迎えていた。レストランの他ではラスベガスとリノのカウントダウンにそれぞれ何度か行ったことがある。ギャンブル、カジノで一年中お祭りの街ラスベガスやリノでは中心街の路上でカウントダウンが行われる。その時だけは路上での飲酒が許されているようで、我々もカジノで手にいれたお酒をもって飲みながらカウントダウンの時を待っていた。大勢の人が電光掲示板に合わせて皆いっせいに、Ten, ,,,,Three, Two ,One, Hapy New Year!

 

そして、屋外のカウントダウンの会場では、ニューイヤーの瞬間には周りの人と(嫌がらなければだが)誰とでもキスをしていいとされていたのであった。皆酔っぱらっているから結構なノリでキスをし、されていた。30年も前のことであり今はコロナのせいもあり、あの雰囲気はなくなっているのであろうか?思い返せば古き良き時代のアメリカであった。

 

だいたいベガス、リノへ行く仲間にはSさんがほぼ毎回一緒であったが、繁華街で交通整理をしたとか、警官がいなかったパトカーの上にアルコールを差し入れたとか、カジノホテルのフロントの椅子で酔いつぶれていたとか、様々なうわさが残っているが、あくまで仲間内のうわさであり、定かではない。

晴れ、晴れのち曇り、時々快晴の楽しいアメリカ生活であった。

 

今週のミーちゃん

 

Merry Christmas & エピソード27

新潟県は18日から大雪に見舞われ、8号線が一時22キロにわたり、800台の車が雪の中で立ち往生の事態となった。車から出て食料を求めコンビニへ、ガソリンを求め給油所へと歩く人達。政府は2035年の販売までに全新車をEV化するという目標をたてている。

先日友人Fさんが全電気自動車を買ったが、燃料費はガソリン車の半分くらいと安く、加速もよく音も静かでこれからの車の新しい流れになりそう。

しかし、バッテリーが上がったら雪道では命に係わることもあろう。ガソリン車やハイブリット車のようにガス欠したらタンクに入れて持っていけば済むことではなく、充電がいまだにネックである。普段は家で一晩充電すればフルになるが、出先では充電スタンドでの高速充電でもフルチャージするのに1時間はかかる。前の人が使っていたらさらに最長1時間ちかく待たなければならない。

 

Fさんによれば、ディーラーで「遠出をする時にはどうしたらいいのでしょうかね?」と聞いたら「レンタカーをしてください」と言う嘘のような回答だったとか。ニュースでは「雪の日に車でのお出かけには、常に満タンを心掛け、電気自動車はディラーの方のアドバイスに従ってください」と、言っていたが、おそらく助言は「冬のお出かけはレンタカーで」という助言であろうか(笑)。

 

私も夏の車検の時に最新の電気自動車をディーラーが貸してくれたが、少し遠出をしてみたが常にバッテリーの残量が気になってしまう。電気自動車を安心して使えるようになるにはもっと短時間で何処でも充電できるようにならないと、まだ時代に即さないのかと思う。

 

今回の大雪は里雪型の降雪であり、スキー場のある赤倉、湯沢にはほとんど積雪がなかった。23日からまた寒波が襲い大雪の予報であったが予報ほどのことはなかった。新潟では1月2月ならこのくらいの雪はありうると思うが、今回は12月中の大雪で、私はスノータイヤへの履き替えの予約が20日であった。樹木の雪囲いも、まだのところがある。

やはりこれも世界的な気候変動の一部なのかと思う。こうした大雪の影響で毎年、雪降しの人が屋根から落ちたり、雪の下敷きになったり、除雪車に巻き込まれたり、雪崩や、二酸化炭素中毒などで何人もの方が命を失うのは雪国の宿命である。

アメリカでも中西部、東部が寒波に襲われ、世界一気候のいいカリフォルニアでも例年より寒い冬だという。

 

アメリカに住み付いた私が「スキー三昧 IN カリフォルニア」 http://www.skizanmai.com/ として、ウェブサイトにエッセイを発信し始めたのは1999年の秋からであった。

http://www.skizanmai.com/2010-2012%20season.html

 

このウェブには私が初めて海外に出た時の記録から:http://www.skizanmai.com/tabibito.html

、アメリカに渡った時の記録:http://www.skizanmai.com/natsunokaze.htm

まで、すべてが収められている。

 

月日は流れ、ちょうど10年前の2012年からウェブサイトを残しながら新たな発信をこのブログ:スキー三昧の日記:      https://skizanmai.hatenablog.com/

に移行させ発信し続けてきた。

 

その間に様々なことがあったが、海外に親しんだ私も2017年に日本へ永住帰国して、何度か海外旅行をし、これからもっと海外旅行を楽しもうと思った矢先にコロナ禍となり、自由に海外に行き来出来ない時代が3年も続くとは思ってもみなかった。それでも、時は進む。

 

私は今月から児童扶養手当を受給する市内のひとり親家庭などに毎月、無料で米5キロを配達する「新潟お米プロジェクトクト」で、ボランティアの一人として配達に係わり始めた。いろんな方にお世話になった恩返しのつもりである。

 

間もなく激動の2022年が終わり新しい年、2023年になろうとしている。

新しい年が皆様にとっても脱コロナの新たな出発の年になりますよう、切に祈って今回が2022年のブログ最後のアップロードとなります。

メリークリスマス、そして皆さん良い年をお迎えください。

 

エピソード 27

サンタモニカにVito Restrantというイタリアンレストランがある。

サンタモニカに住んでいた永年の朋友Sさんとは一緒に飲む機会も多く、酔っぱらうとよく彼の処に泊まっていた。ある時、歩いて10分ほどで行けるVitoに二人で食事に出かけた。私も何度も行ったことのあるレストランで、Sさんは常連に近く、お店のマネージャーやバーテンダーとも顔なじみ。食事の前に席を待つ間にカウンターで飲み始める。

 

カリフォルニアでは車で飲食が出来なければ飲食業は成り立たず、道路交通法では血中アルコール濃度が0.08%以下であれば飲酒運転とならない、その量は普通の成人で一時間に350mlのビールで2缶くらいと言われている。それでも、巷の飲んべいの間では、アルコール分解速度は人により違い、自分はもう少し新陳代謝が良いと信じられていた。アメリカではいわゆる日本の「ネズミ捕り」のような取り締まりはなかったので、車で飲みに行って、それ以上の量を飲んでも運転して帰る人は多い。

 

私も車で飲みに行くときは一応気を付けてはいたので、車で出たときは普段あまり強いカクテルを飲むことは少なかった。しかしVitoは歩いて帰れる安心感からいきなりバッカマティーニを頼む。マティーニは普通ジンをベースに少量のベルモットを加え、オリーブを添えて作るカクテルであるが、ジェームスボンド007の定番でウオッカで頼むバッカトニックがちょっと通っぽい。我々もベガスなぞに行ったら頼むのはバッカトニックかバッカマティーニが定番であった。

 

しかし、バッカトニックはかなり強いカクテルである。バーテンダーと話しながら気分よく飲み続けるうち、食事は忘れ、バーのカウンターでアラカルトを食べながら杯を重ねる。二人ともかなり酔っぱらって、その後の記憶はところどころしか覚えていない。後で二人の記憶をつなぎ合わせると、なんとも壮絶な一夜であったらしい。

 

まず翌日の午後に目が覚めると隣の住人に、「あなた方、昨夜パトカーでお帰りよ」と、聞く。そういえばと、二人の記憶を思い起こす。昨晩、Vitoで酔っぱらって周りまで巻き込んでの大盛り上がり。それだけならいいが、なんせ記憶が飛んでいる。まず夕方Vitoに電話をして会計が済んでいることを確認、、良かった、とりあえずは無銭飲食はしていないようである。そして次に我々がパトカーを呼ぶような騒動を起こしていないことを聞いて、これもクリアで一安心。お店にパトカーが来たのは他の客がけんかをして警官を呼ぶ騒動があったそうな。

 

そして、二人の警官に「我々はこんなに酔っぱらっているので、帰る途中で何かあったらあなた方も困るだろう」と家まで送ることを要求して、やさしいお巡りさんが送ってくれたようだ。贔屓にしていたお店であったが、Sさんは眼鏡を置いてきたと思われたが取りに行く勇気はなく、それ以来、出入り禁止ならぬ、出入り自粛のお店となったのであった。

 

今週のミーちゃん

小堺 高志

e-mail address:  kozakai@earthlink.net  or  tklos1029@gmail.com

高田に生まれて(私のルーツ)+エピソード26

11月になり、いまだ新潟県はコロナ感染が増え続けているが、抗体抗原検査をして、千葉県に住む弟と、年が明けると101歳になる母に会いに里帰りをしてきた。久しぶりに兄弟もそろって、我々が帰ると聞いて急に元気になったという母とお寿司の昼食をとる。

              高田城址公園

その後、弟と有馬、草津にならぶ日本三大薬湯である松之山温泉へ一泊して、松代の菩提寺にお墓参りをし、幼年期を過ごした十日町市を訪ねる予定で、私のルーツを訪ねる旅でもある。松之山は風土が養蚕に向いていて母の実家は松之山で昔から蚕の種を売る蚕種業を営み、祖父は県内3か所に事業所を持つ新潟蚕種製造所という会社を持ち、その後日本最大の養蚕会社で松本にある片倉蚕種製造所と合併して県内全域の蚕産家に蚕の種を卸していた。一時は県会議員に立候補するほど羽振りがよかったという。祖父は落選したが、その時、地域の県会議員に当選したのが私の両親の仲人であった市川の叔父さんであった。市川の叔父さんは父方の私の祖父の妹が嫁いだ相手である。

 

ついでに書けば、我々の世代には懐かしい御徒町のランドマークであった吉池と、箱根湯本の吉池旅館の創業者は母の叔父さんにあたる。しかし私の一族で海外と関係のある仕事をしていたのは父の弟、昌隆おじさんが学徒動員で陸軍中尉から復員後総合商社ニチメンに勤め、海外出張などをしていたのを聞いたくらいである。昌隆おじさんは広島で原爆に会って、その時ちょうど兵舎の陰にいて爆風で倒れてきた鉄のドアの下になり助かった。その時倒れた鉄ドアを支えて命を守ってくれたのが軍刀に造り変えていった先祖から受け継いだ日本刀であった。その時の爆風で軍刀が曲がり、鞘から抜けなくなった刀がしばらくは実家にあった。

 

松之山温泉の野本旅館の60代と思える仲居さんと話したら、今はない母の実家の屋号を言うと知っていて、旅館に嫁いだ母の姉や、蜂に刺されて亡くなった弟のことも知っていた。祖父は養蚕・養鶏で地元の人が冬出稼ぎに出なくとも暮らせるようにした功労者でもあった。

 

菩提寺のある十日町市蒲生、私はここで2年間暮らしたことがある。昔は松代町の一部で、私の父方の祖父は若くして父を亡くし、3歳の時から宗家の長男として会合では一番上座に座らされていたという。若いころはいろいろな事業に手を出したが、おぼっちゃま経営でどれも上手くはいかなかったようだが、世界恐慌で大勢の保証人になり、さらに戦後の農地解放で先祖からの田畑地代を無くしていた。私が物心ついたころは祖父は松代町の助役をして次の町長と目されていたが体を壊し50歳くらいで早期退職をした。

12年前に亡くなった父も眠る菩提寺のお墓参りをして十日町市にむかう。

 

高田市(現上越市)で生まれた私は教員であった父の赴任で1歳になる前に十日町市に引っ越した。私が物心ついてから10年間を過ごした懐かしい十日町の学校町はすっかり様子が変わっていた。子供のころ夏祭りのお囃子の音色を聞いて遊んだ諏訪様神社は周辺を杉の大木が覆っていたが、今は杉の木がほとんどなくなっている。神社は建て替えられたが、向かいの宮本公園には昔からの石碑、銅像が残っていた。十日町に京都西陣の技術を伝えたという宮本茂十郎の石碑には新しい1万円紙幣の顔になる渋沢栄一による碑文が刻まれていた。

 

母の妹の叔母は絹織物で有名な十日町の織物工場に嫁ぎ、ずいぶん前に工場は閉めたが今でも十日町で暮らしている。「今度新札の顔になる渋沢栄一の名前を宮本公園で見たよ」というと「私のとこにもあるよ」と指差したのがこの写真。

富岡製糸場を作った渋沢栄一は養蚕、絹産業の発展に尽くし十日町にも縁があり宮本茂十郎の石碑の文字を書いたそのころ、織物組合の組合長をしていた十日町の大おじいさんが反物を送り、そのお礼に頂いた手紙だそうである。しかし、良くとっておいたものである。

 

私が暮らしていたころの十日町市は織物で活気があり、今思えば昭和の古き良き時代を象徴するような地方都市で、街中からがっちゃん、がっちゃんという機織(はたおり)の音が聞こえていた。物心がついたとき、十日町の学校町と呼ばれていた小学校のすぐ前にあった教員住宅に住んでいた。弟はそこで生まれ、幼年期特有のその小さな空間が私にはすべてであり、だんだんと行動する世界を広げながら小学校5年までその街で3人兄弟の次男坊として育った。

 

春には雪解けの下から現れる野草の新芽に感動し、夏には入道雲を見て、クリスマスには本町のお菓子屋風月堂のショーウインドウに飾られたケーキのジオラマの世界を走る鉄道の模型に見入り、冬には雪に戯れ、幸せに暮らした思い出の地である。

 

小学校2年生で同じ十日町の学校町から6丁目に引っ越した。6丁目にあった校長住宅が空いていたので教頭であった父に声がかかったようだ。そこで自転車に乗ることを覚えると、一気に世界が広がった気がした。今回そこを訪れたら昔の住居はなくなり敷地は平地になっていて、そのころの面影は住む主のいなくなった向かいの岩崎さんの家がほぼ原形をとどめ残っていたくらいであった。

 

父も母も兄弟の多い家系であったが、今はおじさん、おばさんと呼べる人も少なくなった。風景が変わり、住む人が変わり、昔のことは、やがて誰も知らない過去の出来事の一つになるのであろうが、昔のことを知る人が在命のうちに少しでも記録を残したい思いもあって、ブログに書いている。

 

実際に訪れると60年の歳月はかくも無残に過去の様子を変える。懐かしい昔の風景は永遠に戻らないが、思い出はそれぞれの心の中に残り続けることだろう。今の世界は戦争やコロナのため悲しい思い出しか持てない人も大勢いる。あの時代のあの風景を思い出すたびに温かい幸せな気持ちになれる我々の世代は、戦後の平和な時代に多感な幼年期を過ごし、日本に経済力のあった日々に働き、自由に海外を動き回れる時代であったことに感謝したい。

 

エピソード 26

アメリカでJapan as #1といわれ日本のメーカーがどんどんアメリカに進出していたころ、様々なプラント・プロジェクトに関わらせていただいた。日本の某大手商社さんの荷物にダメージを出したことがあった。それは精密機熱処理炉で納品がおくれれば工場の立ち上げに遅れが生じる。一般的に物流の世界では各サイドが保険をかけていて、保険と言えば何かあったときに相手に保証するためではあるが、実際は自社が事故により訴訟を受け被害を受けることを防ぐためという意味合いが強い。

 

事故などで損害が生じたときにも、私が直接に荷主さんと話すことはほとんどない。互いに保険を掛けているので保険会社同士がやりあって保証額が決められる。それでセトル出来なければ裁判まで行くことになるが、それは保険会社同士のことである。

 

大概は大きくもめることはなかったが、その時の荷物は現地で修理できず、修理のため、日本へ送り返さなければならなかったので、4か月ほど全体の計画が遅れるということであった。事故を起こしてダメージを出したのは弊社であったが、梱包が十分でなかったのではないかとか、状況は複雑であった。保険会社同士が話し合うため、事前に事情を一番よく知る私に弁護士事務所から調書を取りたいと連絡があった。

 

ロングビーチの弁護士オフィスに行くと2人の担当者と速記タイピストがいて、記録は裁判でも使われるもののため、公文章として残すため口頭のやり取り、証言をすべて文章におこしていた。昔のアメリカ映画でみた裁判所での速記タイプのあれである。

 

途中何度か内容確認の時間がとられ、まる一日の面談は終わった。弁護士から取り調べのような内容が続く初めての経験であったが、弊社で事情をすべて把握しているのは私だけ、それにこの弁護士は私の会社のサイドの弁護士であり、相手方の弁護士と折衝に入るための調書つくりであったので、いたって友好的であった。

 

この時が私のアメリカ生活で最も弁護士との接点の多い時であった。その後、文章におこされたすべての会話のコピーが送られてきて、内容に間違いなければサインして送り返し、正式な裁判でも使われる書類となった。すべては代理人同士で話し合われてセトルして、その後もその某商社さんとの関係は私が退職するまで続いたのであった。

 

アメリカで方々の都市に出張したが、日系の会社の駐在員はセールスに行っても情報収集も大切な仕事の一部と、私がお会いしたいというと殆どの方が会ってくれた。アメリカの港湾へアジアから船で荷物を運べばその80%は西海岸で上げてトラック、鉄道で内陸へ運ばれていた。大手の商社・物流会社であれば全米に何か所かオフィスを持っているケースが多く、LAのオフィスと付き合いがあれば他の都市の方を紹介していただくことも出来た。

他の国籍の会社では料金を踏み倒して倒産するケースも経験したが、日系の会社は日本に信頼できる親会社がついているので、そういうことは皆無であった。そして現地で働く我々日本人たちはある意味、お互いをリスペクトして連携感を持って働いていたのである。

 

今週のミーちゃん

仕方なくお手をするミーちゃん



 

Holiday Season &エピソード 25

Holiday Seasonは厳密にはサンクスギビング以降から年明けまでであるが、アメリカでは10月末のハローインが終わると一斉にクリスマスのデコレーションが始まり、年が変わった1月の初旬にクリスマスデコレーションが外されるまで長いお祭り気分の季節が続く。

アメリカでのこの時期を懐かしむように私も日本でコロナ禍を縫うように各種催しものに参加している。

10月28日にはグランドホテルで上越のワイナリー「岩の原ワインを楽しむ会」が開かれた、毎年フルコースのディナーとワインが楽しみな催しである。今年も幾分規模を縮小て、花角知事を招いての開催であった。故郷上越市の出身者も多く参加しているので同窓会のような催しである。

              花角県知事

      さながら故郷の同窓会

 中央は司会をされたフリーアナウンサーの菊野さん、彼女もまた高校の後輩になる。

 

11月3日には夏のお祭りから延期されていた花火大会が信濃川の堤防で開催され、5日は高校の同窓会の新潟支部の総会でホテルイタリア軒で牛木新潟大学学長の講演があった。

11月3日には今年は夏の風物詩ならぬ秋の花火となってしまった新潟花火大会

妙高会はイタリア軒で講演と食事会

ホテルイタリア軒は我が家からすぐ近く、明治7年に来日したピエトロ・ミレオーレにより創業された日本最古のイタリアンレストランでもある。館内はいたるところに美しいステンドグラスが飾られている。

エピソード 25

私のアメリカの会社での退職時のタイトルはDirector - International Projects & Marketingであった。会社はCompanyであったが実際はカリーさん一族のFamily Companyであり、一族が全ての株を持つことで他資本による影響を受けずに1944年から続いてきたLA/LB港湾での老舗であり最大の物流運輸会社であった。90年代からは他州への進出もしていた。 

 

アメリカは人種のるつぼであると言われるが、厳密にいえばまだ人種は完全に溶けあってはいない。アメリカンインデアン以外のほとんどの人は数世代遡れば移民としてアメリカに来た人たちである。とり分けカリフォルニアはもともとメキシコの領土であったが米墨戦争の結果1848年にアメリカが1500万ドルで買い取った土地なのでメキシコ系の人口が多く、アジアからの窓口に位置し黄色人種も他の州に比べて多い。

よって大雑把に言えば白人、スパニッシュ、黒人、オリエンタル、が人種的な捉え方になる。私がアメリカに住み始めた70年代頃の日系人は3世、4世が主流であったので、私は其の中で永住権を持つオリエンタル系の日本人のニュー移民一世という事になる。

 

私は幸いなことにアメリカで暮らした42年間、一度も人種差別的な扱いに会う事は無かった。それは日系人の多いカリフォルニアに暮らしたせいもあろう。戦時中に強制収容所に収容された歴史を持つ日系移民が、戦後は勤勉で信頼される地位をアメリカにつくってくれていたおかげであった。さらに1980年代には日本の経済力も最強の時代であり、日本人、日本の会社、現地法人はお金に汚くなく、約束したことは損をしてでもきちんと実行するので、アメリカ社会での信頼は厚く、他の黄色人種の中でも特殊で優位な位置にあり、いわば一目置かれる存在であったと思う。

 

日本人であることがブランドであり、誇りである良き時代であった。その後、バブルの崩壊と共に日本経済の存在感はだんだんと薄れて行くことになるが、それでも日系の会社、現地法人はアメリカ社会で信頼のおけるビジネスパートナーであった。私は主にそんなハードウエアを持たない会社が信頼して仕事を任せてくれるアメリカの物流会社にあり、日本人の担当者が居て日本的なきめ細かなサービスが出来るという会社の窓口でもあった。

 

日系人社会は戦後子供の教育に熱心で、仕事を一生懸命にすることでアメリカ社会に食い込んで行った。それでもアメリカはやはり白人社会であり白人が社会の上部を占めていた。私のいた会社でも会社の幹部はやはり白人が多かった。それは教育を受ける機会の差であり、経済的に余裕が無ければ高校を出たら働かなくてはならない人が多かった。奨学金制度は進んでいたが、良い仕事を得るために大学に進めるのは裕福な家庭でなければならないと言う事実は、どうにもならない経済的階級社会を生んでいた。

 

日本で国民総中流社会と言っていた時、世界の現実は貧富の差があるのが当たり前であった。アメリカではおのずとその人の住む地域により家の値段も違い、良い地域には良い学校があり進学率も高く、いい仕事に就けるチャンスも多い。お店、マーケット、レストラン、百貨店等に全てランクがあり、一般的にはお金持ちの人たちが良くいく場所は、高かろう良かろうの場所であり、お金に余裕の無い人が好んでいく安かろうの場所とは異なった生活空間であると言えるのである。

 

参考までにアメリカ第二の大都会ロスアンジェルスのもともとの語源は「天使の住む処」である。ロスは日本でしか通じない略称で、アメリカではLA(エルエー)が略称である。LAは42年住んだ私の第二の故郷となり、今住む新潟市は第3の故郷になりつつある。

今週のミーちゃん

 

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秋雨の伊豆にて

アメリカで40年以上一緒に過ごしたSさんが東伊豆に引っ越したので、コロナが幾分下火になる傾向がみえている10月半ばに訪ねて行ってきた。例によって、「ぜひ一緒に連れて行って」という3年前アメリカに私と行って、3週間Sさんのところに滞在させてもらったO君も一緒。計画を立てた時から台風の心配をしていたが、滞在中は曇りが多く後半は雨も降ったが、何とか持ってくれた。

 

今年の7月にSさんが買ったマンションは、300数十ユニットある80年代後半に建てられたリゾートマンションで、眼下に相模湾から伊豆七島を一望できる高台に建つ建物。室内はリフォームされ新築の様にきれいになっている。リビングの大きな窓からは海と自然豊かな裏山が見える。風のある日は白波を見て、穏やかな日には風光明媚な静止画のような海が見られる。遥かなるその海上を、ゆっくりと行き来する船のある風景がいい。

大島を望む

西方からの東京湾への入り口でもあり、大島との間の海を船が行きかう

風景を守るため、裏山の斜面までマンション管理会社の所有になっているそうで、山側には緑深い自然が残っている。海側には太平洋に浮かぶ大島など伊豆七島が並んで見える。海風が強い日にベランダに洗濯物を干すときには裏山まで飛ばされることがあるので注意が必要だそうで、それを知らなかったSさん、布団を干しておいたら、風で持っていかれて、幸い(?)建物の下から巻き上がる風が空中を舞う布団を数階下の階のベランダへ運び戻してくれたことがあったそうで、管理人から階下の住人に連絡してもらい取り戻したそうだ。今は強力な洗濯ばさみとアマゾンで注文した洗濯スタンドを待っているそうだ。

 

裏山では猿と鉢合わせすることもあるので、「洗濯物を拾いに行って出会った時には視線を合わせなうように」、など新しい土地では知っておかなければならないことも多い。

テニスコートと裏山

館内には天然温泉、ジム、プール、無料で使えるマッサージチェアー、テニスコート、ビリヤード、麻雀室、レストランなど必要なものはほぼ揃っている。常住者はほとんどが高齢者なので終日の館内はどの施設を使うにもがらがらである。若い年代は少なく、週末に少し見る程度で、テニス好きの佐野さんはなかなかテニスのメンバーが集まらないのが不満のよう。

 

毎日、天然温泉の大風呂に入り、ジムで運動して、海の見える窓辺に10台並んだ無料で使えるマッサージ機で体をほぐす。私らの滞在中は曇っていて見れなかった海から上がる朝日の写真が後日送られてきた。アメリカ西海岸でも、新潟でも美しい夕日は見れても海から上がる朝日を見ることはなかったので、滞在中、海から上る朝日を見たくて毎日早朝の外を見ていたが今回はチャンスに恵まれなかった。

いつでも無料で使えるマッサージ機

各種の新聞が読めるロビー

自然に恵まれた環境であるが、一番近くで買い物のできるマーケットは歩いて行けるとこに「成城」があると聞いていたが、散歩好きのSさんが歩いて行ける距離と言うのが曲者であるが「そんな高級マーケットがあるとは、さすがリゾート地」と思っていたのであるが、10分ほどのところにあるそのマーケットへ行ってみたら、あの高級マーケット「成城石井」とは似てもつかない「せいじょう」という看板を掲げる古くからある小さな町のマーケットであった。成城石井と思いこんだ私が悪いのでしょう。

 

マンションから5キロほど海を見ながら山を登るときれいに整備されたクロスカントリーのコースがあり、散歩にはうってつけの場所。

       江戸時代の灯台、ペルーもこの灯台の明かりを見たのかも       

海の見える場所に、沖縄出身のおばあが運営するカフェレストランがあった。秋雨の中で雨宿りの様に寄って海を見ながら沖縄そばをいただく。Sさんも初めてだというこのカフェレストランからの海が絶景でS さんお気に入りのお店になることでしょう。それにしても滞在中は、さんざん歩かされ(失礼、歩き回り)、最初はマッサージのし過ぎかと思ったフクラハギの筋肉痛は、山登りの所為であった事を知る。山歩きには靴底の固いシューズが必要。

雨宿りでランチをとりながら雨が上がるのを待つ

カフェからの風景

最後の夜は施設の中にあるレストランで金目ダイの煮つけなどを食べたが、Sさんも友人が来た時しか使わないという結構高級感のあるレストランで、料理は美味く、なかなかの腕のある料理長と推測した。

伊豆半島は学生の時に車で一周して以来で、わずかな記憶しかない。今回縁あって訪れることができたのはSさんのおかげ。伊豆東海岸への起点は新幹線の駅のある熱海からであったが、東京から直通で下田まで行く「伊豆の踊子号」という手段もある。熱海から伊東までは海岸にヤシの木が植えられて、アメリカのウエストコーストに似ていないこともない。車のないSさんのために?マンションからは専用のシャトルバスが運行されていて、駅、買い物などに連れて行ってくれる。その他、違うシャトルがこの辺で唯一の総合病院まで連れていってくれるので、贅沢を言わなければ車がなくとも暮らせる。

地元の漁港で海を見るSさん

Sさんの生活は昔から質素なシンプルライフ、それでいてここでは贅沢な雰囲気の中で暮らせている。都会暮らしではないが、頻繁に友人の訪問もあり、シンプルライフを過ごすにはいいところを見つけたね。

 

湯沢のSさん、私、そして東伊豆のSさんと退職後逐次にアメリカから帰国した人達の生活の収入の基本はアメリカからの年金であり、今のドル高の恩恵を受けて暮らしている。反面1ドル150円は日本の経済力の弱さを示すものでもあり、円で計算したらアメリカの最低時給は日本の3倍にもなり、円安も幾分行き過ぎかと思う。

 

コロナ、気候変動、戦争で世界中が不景気になると、国民の良識でバランスの取れていた日本社会でも、自分勝手な規則やぶりや犯罪が増えてくる。それを罰する規則も整っておらず、罰も甘いやり得の社会に思えるニュースが続く。世界中になかなか安住の地のない時代になってきたのが心配なこの頃である。

 

エピソード 24

カリフォルニア最大のスキー場、マンモススキー場へは30年近く通い続けた。

マンモスの僕らの向かいのコンドユニットの持ち主はサンディエゴの年金生活者のカールであったが、奥さんも不動産屋を営み、優雅な生活を送っていた。その頃毎年、サンクスギビングにはマンモスで僕らと合同で晩餐会をした。顔の広いカールは、いろんな人を連れて来ていてそのサンクスギビングディナーは毎年多彩な顔ぶれで面白かった。

 

元地方裁判所の判事、息子の嫁であるスエーデン人のモデル、元海軍の戦闘機パイロット、元海軍潜水艦の乗組員。元海軍の戦闘機パイロットは、映画のトップガンのように日本で富士山を見ながら戦闘機で飛んだ話。潜水艦に乗っていたエリックは日本の海上自衛隊と小笠原諸島周辺で合同仮想戦闘をした話など面白い話をいくつか聞いたが、退役軍人である彼らはそれらの戦闘機、潜水艦の機密とされている事に関しては、退役後も漏らしてはいけないと言う承諾書にサインさせられていて、「その潜水艦はどのくらいの深さまで潜れるのか?」「日米どちらが勝ったか?」などと聞くと、「それは教えてはいけない事になっている」と口をつぐむのであった。日本の自衛隊は優秀だそうで、訓練後の自衛隊員とのBBQ交流などを懐かしむ様に話してくれた。

 

カールは大概、サンディエゴの釣り仲間からマグロを貰って、大きなアイスボックスに入れて一頭丸ごと持って来てくれた。マグロはいくらでも釣れるが、アメリカ人はどうやって食べたらいいかあまり知らず、せいぜいツナ缶を造る業者に安く売るくらいで、「サンディエゴに来れば幾らでも貰ってあげるよ」とカールは言っていた。1メートルくらいあるマグロを料理の得意な私は普通の包丁一本で下ろし、刺身、から揚げ、アビージョ、ステーキなど自分で開発したのを含め、10種類以上のレセピを持っていた。

楽しかったスマンモススキー場でのいくつものシーンを今も思い出す。

 

今週のミーちゃん

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