従弟を弔い、世相を斬る

10月15日から中欧、オーストリア、チェコ、スロバキア、ハンガリーの4か国へアメリカからの親友・佐野さんと8日間の旅に出かける予定であった。

9日に佐野さんから連絡があり、「今、医者に来てます。昨日テニスで膝を痛め、ビッコを引いてます。でも旅行は大丈夫です」と、連絡が有った。今回は従弟の事とかいろいろ心配があり、旅行はキャンセル出来るから、「無理をしなくていいんだよ。せっかく行っても観光が出来ないのなら行く意味がないよ。一日1万歩以上歩かなければならないから」と言ったが、「大丈夫だよ」との返事。かって彼はメキシコの観光地アカプルコに松葉杖で行った事がある。「航空会社もホテルも従業員が気を使ってくれてVIP 扱いだったよ」と言ってたから、今回も大丈夫なのだろうと予定通り進めることに。14日に東京で会って、15日の9時成田集合の阪急交通のツアーである。

 

愉しい旅をと思っていた11日の朝、7時頃かねてより従弟の智が入っている施設から「真夜中から呼吸が荒くなり、酸素を3キロ入れています。すぐに来れますか?」と急な連絡が有った。「それは危篤という意味ですか」と聞くと、若い看護士が「危篤になりえる状態かと思います」すでに3年ほど前から進行性核上麻痺という難病指定の病気が進行していて、前の日の10日に見舞に行った時も「食事をするのもだんだんと厳しくなっています」という話は聞いていた、私の旅行中は何とか持ってくれると良いなと祈っていたが、連休の最中でもあり見取の役を担う医師の見立てではない。あいにく11日は『にいがたマラソン』でその日は朝から最短距離の新潟みなとトンネルは通貨出来ない日であった。施設に向かう途中電話が入り「先ほど脈拍と呼吸が止まりました」とのこと。

私が着いた時にはすでに亡くなっており、その後医師の死亡診断書は午前8時48分、東区の養護施設にて、71歳で死亡とあった。

 

唯一の親近者である弟の相澤 剛も、現在、兄より早く施設で身体を動かすことも話すことも難しい状態にあるため、喪主を務められるのは従兄の私しかいない、少人数での簡略な火葬プランにて、静かに見送りたいとすでに9月にお葬式屋さん、お寺さんと話をして心つもりはしていたが旅行とは予想より早かった。その日から目の回るような忙しさ。何処からどうすればいいのか。まずすぐ近くにある小さなお葬式に連絡を取って、すでに想定していたお金のかからないプランで進めていただくようお願いして、その日のうちに施設に遺体を引き取りに行ってもらう。翌12日にお別れ会で弟の剛を介護タクシーで最後のお別れに連れて来てもらう様に施設に行ってお願いする。

 

12日(火)午後3時より、30分ほどのお別れの時間を設けてもらう。私の知る数少ない智の知り合いは勤めていた会社の人たちだが連休中の為、連絡は取れず私と家内、智の弟の剛の3名での寂しいお別れ会であった。13日(水)午後3時より、青山斎場にて火葬を執り行う予定になる。旅行に持っていこうとしたWi-Fiは11日にキャンセルしたのに12日には早くも届いてしまったので大和運輸に行って着払いで送り返さなければならない。

 

亡くなった智は私の母の弟の子である。幼くして父親を亡くし、母親一人の手で育てられ決して恵まれた人生ではなかったと思うがその人生の中で、嬉しいことや楽しい時間もあったことと信じる。母方の私たちの祖父は日本が養蚕・製糸業の全盛期を迎えた1930年代から戦後にかけて、日本が世界の生糸輸出の約80%を占めて世界のマーケットを圧倒していた時代に養蚕業者に蚕の元となる卵を県内全域に卸す「種屋」新潟蚕種製造株式会社という会社を戦後まで経営していて、私が覚えている母の実家には養蚕の建物が何棟かあり、新潟県内全域の卸業者に蚕の種を販売してかなり景気が良かった。

 

智、剛の父、恒雄さんはその長男であったが65年ほど前、喉頭がんになり、新潟大学病院に入院して、その頃の保健の効かない治療法も含め、お金に糸目を付けず、あらゆる治療法を施したが38歳で亡くなり、やがて養蚕業も衰退し会社も閉じた。智・剛の兄弟はともに結婚することなく支え合って生きてきたが弟の剛が先に倒れ、半身不随となり、言葉を話すことも難しくなり。そして兄の智も、3年程前に難病指定の治療法のない進行性核上性麻痺を患い、療養生活を送っていた。

 

去年の6月から施設に入れ、言葉もほとんど話せなくなり、だんだんと身体の機能が落ちていた。無くなる前の日の10日に私が見舞いに訪れ、顔を合わせたのが最後となった。

 

13日は朝から市役所に行っていろんな手続きでした。3時からの火葬、青山斎場では私と家内の二人でお骨を拾ってあげた。

私自身は、15日からの旅行を取りやめ、最後まで責任を持って見送ってあげたいと思っている。火葬後は、お寺さんに遺骨をお預けし、四十九日を過ぎた頃に、納骨と読経をお願いする予定でお寺さんと話している。

お墓は私のとこから歩いても5分ほどのイタリア軒の隣、宗現寺さんの永代樹木葬墓地で、すでに彼らの両親が眠っている。これも私が用意してあげたお墓。私がアメリカから新潟に帰っていなかったらどうなって居たことか、きっと智も私が居てくれてよかったと思っていることでしょう。

 

お骨を持ち帰り一晩私のマンションで過ごしてもらい、14日は朝から、遺骨を宗現寺に持っていき、49日の納骨の日まで預かってもらう。11月27日を49日の納骨日として予約する。ヤマト運輸で旅行用のWiFiの返却、ボランティアをしているお米プロジェクトのお米のピックアップ、昼食、彼のいた介護施設から荷物を引き払う為の業者の選択と見積もりの為の依頼、納骨の為のお墓屋さんの予約、そして気分転換でジムによって、買い物をしていったん帰宅、NHKに障害者受信料免除の解約通知、市役所に行って各種保険、資格の停止、その他もろもろの手続き。

銀行によってこれからかかる現金の引き出し、年金センターへ行って年金の停止手続きと私にとっても今年一番の忙しさかと思われる1日でした。

 

それにしても、日本のお役所の進歩の無さにはあきれるやら笑っちゃうやら。例えば再発行のパスポートの写真はネックレスが写っていてはダメなのだそうである。身分確認の写真照合には何の関係もないと思うが融通の利かなさには驚くばかり。

手続きをしながら『アメリカで永く暮らしていましたがこんなばからしいお役所仕事をする国はまずありません。あなたが悪いわけではありませんが、誰がネックレスがあると写真での本人確認が出来ないと言ったのでしょう?』『こんな無駄な事をしているからGNPは世界6位に落ち、日本はどんどん2流国になっていくのですよ』と窓口の係員に愚痴っちゃいました。「ごもっともです」と言ってくれたが、これを改革する政治家は出てこないでしょう。お役所仕事は横暴だと一時非難を受け改革されたが、変わったのは窓口の係員の言葉使いが丁寧になっただけで、これからもその内容は変わることは無いでしょう。複雑な日本の行政システムや人権削減によるネット契約は種々手続きや、解約、援助を受ける高齢者、移民などにとっては高いハードルとなっている。

 

アメリカで日本の政治家が視察と称して港湾施設を見に来た人も多く居ましたが大体が視察とは名目で、税金を使ってのその後の観光旅行がメインだと関係した人たちも言っていた。餞別を貰った関係者や後援者に配るのでしょう、土産物屋さんで、ここから、ここまで全部お土産用に包んでください、と陳列棚の一角を指さした政治家もいたそうだ。

 

政治家に期待できなくとも、母国日本が何時か良くなりますようにと祈る。しかし政府もお金がない。世界では世の中を正すかめ、ビル・ゲーツは20年間で自分の資産の99%を社会の為に寄付すると表明している。これまでの寄付額と、これからの予定を合わせるとその額46兆円と言われている。私もボランティアと、母の教え「一日一善を心がけている。しかしなかなか街中でそういう状況に遭遇することも少ないのであるが、今週は珍しく3回機会が有った。その他、非営利活動団体(特例認定NPO法人)への寄付もしている。すべて、今までお世話に成った人たちへの恩返しのつもりである。

 

世界中に良識ある大物の政治家がいない時代である。46年間政治記者として1400人もの国会議員と付き合いのあった政治ジャーナリストの 田﨑史郎(たざき・しろう)さんが先日テレビで、「1400人の中に、この人の為ならと思わせられた政治家は2人しかいませんでした。田中角栄さんと安倍晋三さんの2人でした」と言っていた。角栄さんはアメリカの怒りを買いアメリカと三木武夫首相に裏切られたという説があり、トランプに唯一意見の出来た安倍さんは思い詰めた男に不幸にも暗殺された。

 

いっぽう、今の世界のリーダーであるはずのトランプ大統領は大統領になる前は必要経費が多いと言う理由で所得税の支払いを免れ、払った年でも所得税は年間750ドルだったというのは有名な話。私より遥かに少ない。

大統領になってからは暗号資産関連の事業に有利な政策をして、自分の家族たちの関係する暗号資産で巨額の財産を増やしている。更には、11月の中間選挙で共和党が勝てば、国民に5000ドルを給付する、高齢者に90ドル与えると言いたい放題。国の指導者が、「自分の政党が勝てば現金を渡す」と選挙結果に結びつけることは、買収であり民主主義にとって重要な問題だと言われている。

しかし今の所、司法判断で違法と確定されていない「公約」だという逃げ道が有るからである。それにしてもトランプはノーベル平和賞がもらえなかったのでノーベル財団を非難し、自分の望んだ様に動かないICCの赤根智子裁判所長や関係者を制裁対象としている。国内の石油価格が上昇して批判を受けるとロシアからの石油の輸入を表明したという品の無さ。

「私が大統領になればウクライナでの戦争は24時間で終わらせる」と言った戦争は未だに続いています。それどころかトランプが米軍に攻撃を命じた国は10か国あるそうで、これでは、自分の思うようにいかないと癇癪を起こす幼稚園児のレベルです。そんなトランプに媚を売り、財源の無い2年間消費税廃止の高市首相が良くやっていると思う人たちはこの事実をどうとらえるのだろう。野党を応援しているわけではないが、政治家で国民の生活は変わる。

アメリカと日本の中間所得層の納税額のパーセントは日本の方が高い税金を支払っている。そして富裕層になるともっと大きな違いになる。お金のある人が払えばいいと言う考えは何処の資本主義の国でも富裕層の政治家には通じない。日本の年金は遥かに少なく年金だけで生活できる人は少ない。一方アメリカの公的年金は物価スライド制なので、今の所は物価が3%上がれば年金も3%上がるのである。

世の中はもう、「あ、あ~あ~やんなっちゃった、あ~ああぁ~驚いた!」ですね。

思えば世界の最悪の結果を見ずに逝った智は人類の長い歴史のなかでは、それなりに良い時代を生きたのかもしれない。 

合掌

小堺家の歴史

小堺家の歴史    2026年 8月30日

 

この度、小堺家墓地相続放棄に同意していただきました親類縁者の皆様に重ねて感謝、御礼申し上げます。

 

前書き

令和6年の『不動産登記法』の改正により新しい不動産登記義務化の法律が出来、相続したことを知った日から3年以内に登記をしなければならなくなった。父の生誕地新潟県十日町市松代蒲生(旧松代町蒲生)には小堺家のお墓がある。そこは松泉寺の墓地と隣接しているが約68坪の墓地とその周辺の公衆道路、および数坪の飛び地は私の祖父、小堺家本家12代の小堺浩の名義になったままだった。父の代に登記変更をしておけば、もっと簡単だったのだが、104歳の母の介護等に忙しい兄に替わって、今回次男である 私が相続名義人になって居る親戚達に連絡を取ってこの墓地に関する相続放棄に同意していただきこの墓地に関し正式に兄を唯一の相続人として登録する為の手続きを行った。

 

新潟市内に司法書士を雇い、この機会にあまりお付き合いの無かった親戚の方々に連絡をとり、協力をお願いしなければならない。その相続に関わる関係縁者を調べてみたら、父の兄弟姉妹8名そのうち、私が叔母さんと呼べる生存者は2名しか残っていない。私のいとこ(従兄弟姉妹)、その子供など直系の相続者として23名もの関係者がいる事が分かった。全員から戸籍謄本と印鑑証明書を送って頂き、それを司法書士さんに渡し、正式な法的手続きを進めていただいていた。7月29日、すべての手続きが無事終了したと菊谷司法書士から連絡があった。

 

我が家の歴史は他人に見せびらかすものではないが、今回ご協力を頂いた親戚縁者の方々の中には小堺家の歴史を知らない世代、方々も多く、この際お礼と感謝を込めて、祖父から聞いた話と、実家に有った文献「蒲生の今昔」「蒲生ヶ池」「松代町の歴史を語る」からの引用で、私の知る我が家の歴史の一部をお知らせ共有できたらと思う。家の歴史を後世に残すことは、単なる過去の記録ではない。それは、自らのルーツを知り、先祖に感謝し、これからの生き方を正し、これからの人生を実りあるものにするための、大切な第一歩なのだと思う。実際、私はこの歳まで生きてきた間に「あっ、ご先祖様に守られたんだな」と思えた時が数回あった。

皆様にも今日の自分があるのは多くの先祖の歩みがあったからだであり、先祖への感謝を忘れず、自らを慎み、己を戒め、代々受け継がれてきた家風を大切に守っていってほしいと思うのです。

かなり私的な内容になるが、関係のある方、ない方も、興味ある方はお付き合いください。

 

本編

 我が家は小堺氏の宗家であり、屋号は下上(しもがみ)である。現存する過去帳によると開祖は天和元年、1681年没、戒名・流山瑞光禅定門とされているが、蒲生の村の発祥は1200年から1300年前とされている。

 分家の下林の小堺又七さんにより平成7年に昔の文献や故老から見聞きして書かれたという『蒲生の今昔』によれば「小堺氏の先祖は六部が蒲生の大池のほとりにあった村に居ついたという事である。六部というのは六十六部の略で書き写した六十六部の仏華経を六十六か国の霊地に奉納する目的で、諸国の社寺を巡る巡礼者(修験者)の事で、六部笠をかぶり、厨子を背負い、各戸を訪れ、山野に野宿する事もしばしばであった事だろう。その証拠となるものが小堺宗家(屋号下上)に代々伝わる家宝である。これを開くと目がつぶれるという言い伝えがあり、おそるおそる包みを開くと、金剛杖2本、火打道具一式、炉縁4本、御飯杓子、箸、鈎付、御幣、背負い組紐等が包装されていた。同家が高田に移住した際、その家宝は下林の私が保管する事となった」とある。

 

小堺家の開祖が1681年に亡くなる前の江戸時代初期は、各地で領主の交代や配置換えが行われ、政治や権力関係にも大きな変化が見られた時代であった。

私の祖父が語っていた「信州にいた先祖が、何らかの事情によって六部あるいは修行僧として故郷を離れ、諸国を巡る旅に出た末に、蒲生に定住することになったと言われている」という話に大きな矛盾はないように思われる。また、開祖が蒲生に移り住む以前の記録は、寺も現在とは異なっており、何処にもそれ以前の記録は残されていない。そのため、開祖がどんな生活をし、なぜ故郷を離れることになったのか、その経緯を知ることはできない。

 

しかし、蒲生の住民となってから数代のうちに何度か庄屋を務めるまでになったことを考えると、開祖の後を継いだ先祖たちが、単に農業に励んだだけではなく、村人から信頼され、人望を集め、地域社会の中で重要な役割を果たす人物を出す家柄へと成長していったことがうかがえる。信州から蒲生ヶ池のほとりにたどり着いた開祖が、そこで新たな生活を始め、その子孫がやがて庄屋を務めるまでになったという小堺家の歩みには、戦国の世が終わり、社会の仕組みが大きく変化していった時代を生き抜いた先祖たちの姿が映し出されているように思う。

 

我が家には先祖の物とされる家宝と共に、数振りの日本刀があったが、ほとんどが戦争中に供出され、戦後も残っていたのは2振り、一振りは学徒出陣した昌隆叔父さんの軍刀に造り替えられ叔父さんが広島で原爆に会った際、鉄製の扉との間でつっかい棒となって叔父の命を救ってくれた刀。そして残りの一振りはもっとも高価な刀で鑑定によれば江戸時代の初期、あるいはもっと古い時代の刀で、製造した刀鍛冶は有名な刀鍛冶の弟子で名前も残る人であったが正確な名前は私にはもう知る方法はない。昭和39年頃に、その頃の値段で80万円で祖父が子供の援助の為手放している。消費者物価指数(CPI)を基準に当時の初任給ベースでの換算をすると今の1000万円くらいの高価な刀になるが、日本の物価は上がっていないので、今の市場価格では500万前後という計算法もある。いずれにせよ、かなりの名刀ときいていた。更には買ってくれた東京の古美術商の話では1寸ほど剣先が折れて研ぎ直している刀で、元の長さが有ったらもっと高価なものであったと聞いている。

 

江戸時代の蒲生は高田城から江戸城に至る最短ルート上にあり、高田から安塚、大島から蒲生を通り松代、十日町への松之山街道の宿場であり、その先は三国街道へと続き、江戸城に至る越後の重要路線であった。慶応4年には幕末維新を迎え、敗戦を続ける幕軍5百70余名を追って官軍一千五百名が蒲生を通り抜けている。私の祖母からその頃の人から「薩摩の人はなまりが強くて何を言ってるか分からず筆談をした」という話を聞いている。幕末維新当時の庄屋は上林と我が家の先祖である下上が交代でやっていた。明治4年に庄屋制度が廃止されると初代戸長は9代目小堺満蔵(下上)が務め、戸長役場は下上の屋敷内にあったと記録が残る。

 

祖父の代に今回相続された土地を墓地として購入し、他からお墓を移したと聞いている。祖父は代々庄屋も務めた小堺家宗家の12代当主であったが、父である小堺喜七を幼いころに亡くし、曾祖母と後見人に厳しく育てられ、3歳で村の会合には上座に座らされていたそうだ。私の父の生まれた大正時代には大きな屋敷に奉公人を大勢抱え、大正末期には色んな商売にも手を出し、運送会社なども立ち上げたがお坊ちゃん経営で商売は上手く行かず、恐慌の際、多くの村人の保証人になり、更に農地解放でほとんどの土地と財産を失ったと聞いている。

明治25年生まれの祖父、小堺浩は25歳で村会議員となり、昭和22年から29年まで山平村の村長を務め、松代村との市町村合併で毎日一升瓶をもって村人の説得にあたり、昭和29年、全国でも最初の市町村合併に尽力した労により内閣総理大臣賞を受け、皇居で天皇陛下の拝謁を受けている。田中角栄代議士とも付き合いがあり、その後、松代町の助役を数年勤め、60代初めで体調を崩し退職をしている。

祖父は私には怖い存在であったが、祖母は何時も変わらぬ優しい人であった。昭和38年、住居を蒲生から上越市高田に移し、今に至る。

 

私の父と兄はどちらも教員として勤め退職している。父は2012年に93歳で亡くなっている。

そして次男の私は2017年まで42年間アメリカのロサンジェルスに暮らし、物流関係の仕事をして退職、今は新潟市内に永住帰国して暮らしている。

直系の連絡先は私が保管しているので、必要であれば本人に確認のうえ、関係者に連絡先をお渡しできます。

 

小堺 高志

〒951-8104

新潟市中央区西大畑町5191-14

グランドメゾン西大畑 701号室

電話:025-201-9877

E-mail: tklos1029@gmail.com

ブログ:https://skizanmai.hatenablog.com/

WebSite:  https://www.skizanmai.com/

この文章は訂正、加筆などのため、ブログ上にも記録を残しております。

「入院顛末記」皆さんにも知っておいていただきたい事

7月15日。その日は朝から熱い日でした。O君とパークゴルフに行く約束があり、今回は彼が車を出す番で、私は飲める日。ビール1缶、日本酒1合、ワイン350mlを冷凍バックにいれ用意。10時に迎えに来てくれたO君の車で新潟競馬場の裏にある何時ものパークゴルフ場へ。ここはもう常連で、社長も、従業員も親しくお友達感覚でお付き合いいただいている。

11時前から芝生の美しいコースに出てプレーする。4コース、36ホールあり、先日行った国営の長岡丘陵公園のコースより遥かに手入れが行き届いていて綺麗な絨毯のようなな芝生。飽きさせない、かなりのテクニカルコースでもある。なかなか調子よく、私としてはいいスコアも出て、熱い中を気持ち良くプレー。

        長岡、丘陵公園のパークゴルフ場にて

ワンコース30分ほどで回れるので12時半ごろからランチタイム。アイちゃんに冷やし中華を頼み、まずはビールで乾杯、昼間からのお酒が美味い。今日は運転手役のO君は、基本飲まずの日。

1時間ほどのランチタイムの後、午後のプレー。気温は34.8度まで上がり、かなり暑い日差し。ソフトドリンクのボトルを持って飲みながら3時過ぎまでプレー。

パークゴルフの後はいつもの人工温泉「極楽湯」によって1時間半ゆっくりと温泉を楽しむ。

 

夕食は「会津そば」で日本酒を1合、その後ざるそばを食べながらビールを飲んでいたら、急に右手でジョッキが持てなくなった。「何かちょっとおかしいな?」と感じながらも、話せているし、左手でビールを飲み続けていたら先ほどの痺れも2~3分ですぐに無くなり、普通の元の状態に戻った。普通に話せるし、歩けるので、そのまま帰宅。

家に帰って気になるので、夜中に今流行りのAIに聞いてみた「右手でビールが急に持てなくなり、2~3分ほどで回復」すると、「初期の脳梗塞、脳出血などで、大きな発作に繋がる恐れがあります、すぐに専門医の診察を受けてください」との回答。

 

脳梗塞の初期症状として、手の平を上に向け、前に水平に上げ目をつむって10秒間t持つ、脳梗塞なら片腕が下がって来る、座って両脚を前に伸ばすと下がって来る、笑うと口元が左右対称にならない、ろれつが回らず言葉がスムースに出ない、視界が変わる、急なめまいやふらつき、字が書けない箸が持てない。私の場合ビールのジョッキが急に上がらなくなったこと以外異変は感じなかった。それらの症状が出たら自分で運転せず、すぐに救急車を呼ぶべきというが、すぐに症状が消えたらなかなかすぐに病院や、救急車の手配をする人は少ないと思う。

 

朝、体調は昨夜の数分いらい元に戻って違和感はなかった。家から20分ほどの東区に桑名病院という脳神経に強い病院があるのを知っていた。私も健康診断の一環として脳のMRIを受けたことがあるし、家内も転倒で頭を打った時に検査でお世話になった病院。まだ病院は開いていないので朝6時半に誰も電話に出ないであろうが何時から開くのかだけでも知りたいと電話を掛けるとすぐに夜勤の看護婦さんにつながり、状態を話すと、「午前11時までにこられたら診察を受けられるようにしておきますから、いらしてください」と言ってくれた。

 

その日9時半に車のディーラーに修理の予約をしていた。電気系統のセンサーの不良で運転には支障はないが、交換部品が入ったので予約が取れ、親しくしていたFさんが店長になり、代車を用意してくれていた。昼過ぎには出来るというので、9時半に車を渡し、借りた代車でそのまま桑名病院へ。少し待たされ脳神経科の森田先生の診察は、脳梗塞と思われ、すぐにMRI、MRAの検査、その前後に、血液検査、尿検査、レントゲン、心臓エコー、心電図、の検査をうけ、24時間心電図モニターを着ける。40分ほどもかかったMRの結果の診断を受けると、「脳の中に小さな脳梗塞の跡が見えます。このままにしておくと48時間内に1割の確率で時には命に係わる重い機能障害につながる発作を起こす可能性がありました。この段階で診察を受けられたのは正解でした」と言われた。MRの画面上には脳梗塞を起こした部分がペンの先で付けたくらいの小さな白い点となって映されていた。車の運転はしてはいけなかったと言われたが既に車を運転していた。

 

すぐに入院手続きをして病室でいわゆる血液をサラサラにする薬を含む3種類の点滴。まず気になったのが、午後に修理が終わっりディーラーから借りている代車。脳梗塞の前兆のサインに気づいたら、本当は自分で車を運転してはいけない状態だったようだが、今ある代車を返して、私の車を受け取って来なければならない。すぐにO君に連絡すると家内を連れて来てくれるとのこと。二人が来たら家内と先生の説明をうけ、受付で待つO君に会う為、看護婦が車いすで一階まで連れて行ってくれてO君に車のキーを渡し、代車をディーラーに返して私の車を病院まで持ってきてもらう。

 

以下は。私がわが身に起きてから入院中に脳梗塞について勉強をした素人の理解であるが、大切なポイントは抑えていると思うので、ひょっとして明日の貴方を助けるかもしれないので読んでください。

脳梗塞は心臓由来の大きな血栓が脳の血管に詰まる場合と、動脈硬化によるコステロールが狭い血管を塞いで脳の一部に血液が回らなくなって起こる場合とがある。脳出血は主に高血圧により血管の柔軟性が失われ、脆くなった血管が破れて出血して脳を圧迫し、ダメージを与える。さらに脳に出来た動脈瘤が破れたら突然強い頭痛を伴い命に係わるクモ膜下出血となる。それらを総称して「脳卒中」というが、脳梗塞は血管が詰まり、脳出血は血管が破れる事である。どちらも最初の前兆がある場合が多く、両手を延ばして前にあげ、目をつむるとその場に手の高さを維持できない、顔が歪んで笑顔がつくれない、座って脚を持ち上げて居られない、上手く話せない、これらの症状が一つでも出たら、一時的に収まっても、重篤な発作の前兆と思い、すぐに救急車を呼んで専門医にかかる事。早期発見早期治療で病状の悪化を防ぐことが出来る。私の場合はラッキーであったが、「様子を見て」はない、すぐに躊躇なく救急車を要請すること。同じことが心臓に起これば心臓の機能を止めハートアッタクとなる。

 

幸いにも私は発見、治療が早く肉体的機能の低下、後遺症はなかったが、これらは生活習慣病でもあり、再発の可能性の高い病気で再発予防策は、薬を飲み続ける、高血圧を放っておかない、不整脈の管理、塩、分を控える、適度な運動習慣、糖尿病の管理、禁煙、体重管理、水分を取る(アルコール、カフェインを含んだ飲み物は利尿作用があり水分を取ったことにはならない)アルコールは2杯までなどである。しかし私はかなり日常の運動を心がけていたし、食べ物にも気を付け、高血圧は薬で抑えていたし、総コレステロール値も170、LDL 85mgと正常範囲内であった。それでも血管系の病気は、自覚症状無しで突然起こる病気である。コレステロールを減らすスタチン系の薬を飲んでいたから、この程度で済んだとも言えるそうだ。

 

翌日17日からは自由に院内を歩き回る許可が出て、軽いリハビリも始まり、お風呂にも入れた。自分としては今までと同じ体調なのでカロリー制限と薄味の食事は物足りない。午後からKSさん夫妻が家内とタクシーで来てくれて、病院駐車場に停まっている私の車をマンション駐車場まで移動してくれた。

きれいなトイレ付の広々とした病室

薄味で質素な病院食

入院中一番の御馳走は焼きそばであった

         病院からは日本海と空港が見える。

正確な診断が出て、病名は「アテローム血栓性脳梗塞」血管に付いたコレステロールが剥がれて血栓となり脳に流れて血管を塞いだために起こるる脳血管障害である。一度傷ついた脳細胞は治らず後遺症が残る人も多いが、適切な薬とリハビリと運動を繰り返す事で「脳の可塑性」という能力で傷ついた部分の機能を周囲や別の部位の脳細胞が互いに補う力が備わっているという。

 

18日からは毎日3種類のリハビリをしている。一つはフィジカルな体力を維持するための運動。担当の若い理学療法士のトレーナーは2日目からは私のペースで自由に体を動かさせてくれる。柔軟、スクワット、腹筋、軽い自転車漕ぎ10分、歩き10分で、合計30分ほど軽く汗を流す程度の運動。そして19日、20日からはかなり本格的な自転車こぎで、心拍数120を越えない範囲で汗をかく。ここはスポーツジムではない、周りはほとんどがカラダの不自由な脳神経系の患者さん達でマヒした肢体を何とか動かしている。ジムのようにカラダを動かす人はいないので、私への皆さんの視線を感じる。4日目からは院内の散歩も一日5000歩を越えることを目標にしている。

 

毎日30分ほどのフィジカルな運動リハビリの他、脳神経など一定の病気に対して運転再開の為の免許再更新コースが義務付けられている。車の免許を維持するために入院中に運転再開の検査が院内のリハビリセンターで行われる。

まずはクイズ的なリハビリで5つのひらがなが並んだものが50組くらい並んでいて、その中から「あいうえお」だけを丸で囲む。紙の上にあいうえおかきくけこと12345678910とランダムに並んだ数字文字に、鉛筆で「1-あー2-いー3-うー4-えー5-おー6-かー7-きー8-くー9-けー10―こ」と、一筆で線を引いて結んでいく。中央から12方向に向かうロータリー交差点にから2台の車が出ようとしているのは何処か、正しい位置にカードを置く。16個の正方形の積み木が有りそれぞれの8面には赤青黄色とその2色の組み合わせの彩色がなされている積み木で、示された紙に書かれた図形と同じように置いて積み木で図形を完成させる。記憶力の検査では二つの物の組み合わせを10個覚え、後でリピートさせられる。

 

そしてゲームセンターのような画面を見ながらの運転シュミレーション。これのハンドルはF1レースカーの様に切れ、街中には無謀運転の車や、飛び出してくる子供、自転車、お年寄りのいる実際にはありえない無法地帯のような街中での走行テスト運転である。これが免許再申請の為でなくゲームとしてやれたら結構面白いかもしれない。

 

これらの課題は毎日行われ、それぞれがだんだんとレベルアップされ、時間制限が有ったり、時間制限はなくともかかった時間を測り、ミスでの減点をされたりする。その結果が森田先生にいき、運転に問題がないと診断されれば先生から免許センターに診断書が送られ、免許の再更新が行われる。許可が出る前に運転をしたら懲罰を課せられる。

 

免許の継続を望む人がどのくらいいるか分からないが、テスト内容の全部は書けなかったが、私はすべての検査でかなり良い点数が取れていたので、私が受からなかったらここのリハビリセンターには誰も合格者はいないのではないか(笑)と思える、かなりシビアなテストである。

 

22日、無事に入院中の予定された検査、治療、リハビリも終え、森田先生と面会して金曜24日午前の退院が決まった。再発防止の日常生活はこれからが始まりである。先の見えない予防の生活は続くが、先生は一番大切なのは薬を欠かさず飲む事で、旅行も、運動も再開していいでしょうと言われた。帰宅したら相変わらず猫のミーちゃんは懐かしむ様子も無し。それでも可愛いい。味気ない病院食で体重は三キロも落ち、なかなか落ちなかった内臓脂肪も減って、お腹周りもすっきりとした。これからもこの体重を維持するのが課題である。

 

最後に私の危機を救ってくれたChatGPTであるが、今は無料だが実はかなりの運営コストがかかっており、投資家が投資をして無料で誰でも使えるようにして、その便利さをアピールしている。投資額を回収するための有料プランはすでに始まっており、無料プランは今後も残るであろうが、すでに利用回数、機能に制限がかけられ、AIによるフルサービスは有料化が始まっている。それでもChatGPTの便利さを知ってしまった人たちは料金を支払ってでもChatGPTを使い続ける事でしょう。そして将来的な予測では、やはり国からの援助を受けて、安く最新のサービスを提供できる中国の企業が世界のスタンダードになっていくだろうと言われている。利用者にとっては何処の国の物であろうと選ぶ基準は使用料金の安さとサービスの内容である。トランプがいろんな分野で敵を増やしている間に、AI分野でも中国はアメリカに替わり世界を覇権しようとしている。これもまた頭を悩ます由々しき問題である。

大阪・伊勢神宮の旅

日米の昔の知り合い、友達が健康を害し何人か亡くなられた人も出て来る年齢となり、私も怪我をしてから体力の衰えを感じる昨今、動けるうちにまだ国内外に行ってみたいところがある。

今まで何度も大阪を通過したが、日本第二の大都会なのに一度も大阪で降りて観光をしたことはない。友人に聞いても「大阪は都会であり、かつ昭和レトロの庶民的でもあり面白い街だよ!」という。それじゃあ行ってみようか。ちょうどいろんな事が重なり、じっくりと予定を立てられないまま、数日前にガイドブックを買うような状態で、行けばどうにかなるさの旅である。そういう旅は得意だし、事故なく、忘れ物なく楽しんで来れたらと思う。6月12日、昼過ぎ新潟空港から伊丹空港へ飛ぶ。早くにチケットを

取れば新幹線より安く、半日の時間セーブにもなる。搭乗したANA機は久しぶりのプロペラ機であった。最近のLCCの航空会社は最新機を使っているケースもあり、大手航空会社だから良いという訳でも無いようだ。

 

大体の予定は決めている。一日目は大阪城と宿泊ホテルのある梅田界隈。2日、3日は伊勢神宮参りで4日に大阪に戻りミナミを観光、五日目に新潟へ戻る。伊丹空港からバスのリムジンでJR大阪駅に行って、駅近くのホテルにチェックインする。ここもインバウンドの外人客が多い。すぐに環状線で大阪城へ。ともかく天守閣に向かうがさすが豊臣秀吉の居城、規模が大きい。大阪城公園の中でかなり歩かないと天守閣に辿り着けない。入場料1200円を払って天守閣に入るとエレベーターで5階へ。そこから最上階の八階展望台へ階段を上る。天守閣の8階から、各階に展示されている豊臣秀吉のゆかりの品、お城にまつわる戦国時代の資料等を見ながら階段を下りる。

天守閣最上階からのながめ


オリジナルの大阪城は豊臣秀吉が1583年に築城、秀吉亡き後、大坂夏の陣で落城。徳川2代将軍秀忠により秀吉の権威を消し去り、より立派なお城を作るよう命じられ、盛り土で秀吉のお城を埋め、その上に再築されたのが今のお城の原型である。其の天守閣は1665年の落雷により燃え、昭和になって天守閣はコンクリートで復興された。公園の一角には400年埋められて眠っていた秀吉期の石垣が有り、地下に下りてみる事が出来る。

 

秀吉は姉の子秀次を養子にしたが、実子秀頼が生まれると秀次は謀反の疑いをかけられて関白職と領地を没収され、天正19年に高野山で自害させられ、その妻子や近親者も京都で処刑され、一族郎党ほぼ全滅という悲劇的な結末を迎えている。このように戦国の時代に跡目相続で、養子を淘汰するという残酷な行為は私の地元の英雄上杉謙信の亡き後の上杉家でも養子となって居た血縁のない上杉景虎はその後、謙信の養子となった血縁のある上杉景勝に敗れ豊臣秀次と似たような運命をたどっている。戦国の英雄は時にはかくも残忍である。

 

JR 大阪駅に戻り、駅周辺の梅田(通称キタ)の地下繁華街で飲みながらのつまみが夕食になる「美味い!」。さっそくの食道楽大阪の実力に脱帽である。2軒はしごして、大阪駅の近くのホテルで一日を終わる。初日の半日で1万7千歩はいきなりの強行軍であった。しかし、観光旅行に出るには一日1万5千歩を連日歩ける体力がなければならないというのが私の持論である。あと何年頑張れるであろうか。


翌朝、梅田の駅から近鉄に乗り伊勢に向かう。これが意外に遠い。約2時間かけて伊勢市に着く、神宮は外宮と内宮があり、駅前で伊勢名物伊勢うどんを食べ、外宮の入り口で一番小さな2個入りの「赤福」を食べ、外宮を参拝、広い敷地内に多くの施設が点在し、森の中に厳かな雰囲気を醸し出す。ここが昔からの日本の総氏神と言われる皇室の祖神、天照大御神を祭る国家、国民の平安を祈る聖地である。

内宮は外宮からバスで30分ほど離れていて同じような多くの社殿からなり、各社殿を参拝しながら中心である本宮に着いてお参り。決して交通の便のいい場所ではないが昔の人は生涯に一度、財産と命がけで歩いてここに参拝に来ることは限られた者だけが出来る「一生に一度は行きたい人生最大の行事」であり現代で例えるなら、「信仰・観光・グルメ、人生の記念旅行」が一体になった特別なイベントだったと言う。

内宮・皇大神宮


7年後の令和15年には20年に一度の、式年遷宮(しきねんせんぐう)と呼ばれる神事が行われる。内宮(ないくう)・皇大神宮、外宮(げくう)・豊受大神宮の社殿をはじめ、多くの建物や神宝を新しく造り替え、神様に新しい社殿へお移りいただく神事であり、ちょうど内宮ではそのための木材を神宮に運ぶ「お木曳」が行われていた。こうして宮大工の技術や神事の作法を20年ごとに次世代へ継承し1300年間続いているのである。古代からの日本の文化、精神の基盤がここにあると改めて感じる。参拝後、門前町のおはらい町でビールを飲みながら、松坂牛串焼きなどを立ち食いで食す。松坂牛は伊勢の隣、松坂市の特産である。値段は3ランクくらいあったがどれを食べてもおいしく、和牛に噛みつく。

松坂牛串焼き

おはらい町、おかげ横丁

 

予定より早く外宮、内宮をまわる事が出来て、翌日は予定を早めて大阪に午前中に戻る。

大阪のミナミの中心、難波で荷物を預け身軽になって名所廻り。そのコインロッカーを探すのに一苦労。まず大阪の駅にはコインロッカーやトイレの案内表示が関東に比べて極端に少なく、分かり難く不親切。でも道を聞いたら大阪人、思いの外(?)親切なので驚きでした。

ミナミの道頓堀はベタな大阪でこてこての大阪のイメージどおり。何度もテレビで観たことのある「かに道楽」「くいだおれ人形」「グリコ」などの有名看板。途中で串カツ、カニ饅頭、タコ焼きを食べ、急に見つけた「とんぼりリバークルーズ」の観光船に飛び乗り、道頓堀を20分巡るミニクルーズで有名な看板を堀の上からみる。ガイド役が盛り上げるため、時たまトランペットを吹くので堀沿いの観光客から注目を浴びる。

道頓堀

かに道楽の看板

大型画面にうつった私

道頓堀の見えるお店で串カツを食べる

くいだおれ人形

トランペットを吹いて盛り上げるガイドさん

観光船の上から

自撮り

 

難波の道頓堀から通天閣まで歩いたら思ったより遠かった。通天閣に登るには長いラインがあり、登っても通天閣が見える訳ではないと止め、近くにある若手芸人の出る寄席で休憩がてら30分1000円のお笑いを見る。大阪にはこれから売れたいと願うまだ食えない芸人が大勢いる。ここはそんな若手芸人が日銭を稼ぐような場所らしい。歩き疲れ、帰りは地下鉄と環状線を乗り継ぎホテルへ。今回買ったばかりの靴が合わず爪先が当たって痛くて苦戦しながらも今日も完歩。

通天閣

宿は大阪城公園の近く。目の前に有名な大阪城ホールがあり、夜コンビニへ行くと大勢の観客が出てきた。ネットで調べたら、今日は有名なプロレスの試合があったらしい。ホテルの最上階にあるレストランバーでカクテルを飲みながら大阪城の夜景を楽しむ。

大阪城の夜景

翌日、9時ごろホテルをチェックアウトして大阪駅に荷物を預けて「なんばグランド花月」へ行くが、あいにくチケットは売り切れで、3000円の立見席なら入れるというので、約2時間半の立ち見、可笑しいわ、靴のせいで足は痛いわで、立っているのがきつかったが何とか2時間の演目をみれた。桂文鎮、珠江など有名人も出演しており、テレビでしか見たことのない大阪芸人は面白かった。そこから心斎橋・アメリカ村へ歩いてみる。アメリカ村は古着屋さんが多く、東京のアメ横に似た雰囲気。心斎橋大丸裏の宇治園本店で抹茶のソフトクリーム。

なんば花月

大阪の地下鉄

夕方近く、キタの梅田、大阪駅に戻り少し早い午後飲み。

大阪駅に戻り、荷物を回収して4時半のシャトルバスで伊丹空港に向かう。午後8時過ぎに無事に新潟空港に着陸。帰りのANAはジェット機であった。明日からまたボランテア、成年後見人としての仕事、私事等で忙しい日々が続く。旅行中は、私にとりストレスの無い時間であり、評判の名物はほぼすべて食べてみた。

 

そういえばヒョウ柄ファッションの大阪の叔母さんは見なかったな?もう絶滅危惧種になって居るのだろうか?

バルト三国とポーランドの旅・後編

翌朝8時からエストニアの首都タリンへ移動4時間半の移動。タリンは寒いようなので、何枚も重ね着をし、雨具も用意してバスに乗る。国境を越えてエストニアに入ると雨が降り出した。広葉樹林と白樺の森林はまだ緑の少ない、冬の佇まい。昔ヒッチハイクで歩き回ったバルト海の対岸、フィンランドの森を思い起こす。

エストニアはイメージする中世ヨーロッパに最も近い風景を残す国と言われ、反面IT 技術の発達した国でもある。首都タリンにはヨーロッパでも屈指の保存状態のいい旧市街地が残る。タリンに入ると13世紀に造られた城壁に囲まれたタリン歴史地区観光の中心地はラエコヤ広場と旧市庁舎、、アレキサンドル・ネフスキー大聖堂

ロシア正教アレクサンドル大聖堂

最古の教会の大聖堂と市街を見下ろす展望台、古い石畳の道を歩き、歩き回れる範囲に見どころ満載。

展望台から旧市街を見下ろす

 

石畳の古い小路が続く

旧市内はとくに綺麗で何処をどの角度から見ても至る所が中世ハンザ都市の雰囲気と賑わい。一部城壁が今も残るビィル門から入ったヴィル通りは特に良く、今までのバルト三国の街で一番気に入った街と佐野さんと意見が一致。

旧市街への入り口、出口ビィル門

トーンベア城とビック・ヘルマン塔

中世の街並み

ロシア大使館の前には遠慮なくウクライナの犠牲者を悼み、ロシアを非難する言葉が掲げられている

街で一番古い薬屋さんは1422年創業


     ラエコヤ広場近く中世をテーマにしたレストランオルデ・ハンザ      

夕方ホテルにチェックインして夕食後、昼間チェックしていたタリンの中心街にある中世時代をテーマにした有名レストランOlde Hansaに夕食後いっぱい飲みに繰り出す。スタッフは当時の衣装を着て、内装も蝋燭中心の薄暗い照明も中世そのまま。食事が済んでいたので15世紀の料理は食べなかったが、暖ためられたハーブ入りのはちみつ酒を呑む。

蝋燭の明かりでサーブされる

それにしても、今回の旅では方々でお酒を飲んでいる人達の姿を見る。我々も飲むと言っても3~4杯くらいのもの。ネットで調べてみた。「世界で一番お酒を飲む国民の国別ランキングは」と入れたら常にトップに来る事が多いのはエストニア、ラビトラ、リトアニアであると出る。な~るほど。やっぱりヨーロッパの寒い国は消費量が多い。

 

中でもバルト三国は飲んべえが多くて有名なようだ。この辺の人は巨人伝説があるように大きな人が多い。身長が190cm以上なければ背が高いと言わないそうで、トイレの男子用便器は高くてほぼつま先たちをしないとおしっこが出来ない。街中でも2メートルもあると思える巨人に何人も出会う。佐野さん曰く、「こんな人が日本に行ったら頭をぶつけてボコボコの瘤だらけになるでしょう」こんな巨人が飲むお酒の量も半端じゃぁないだろうと想像がつく。一句浮かびました「バルト人、グラスの様に、ボルト空け」

 

しかし飲んでいるばかりでなく、ロシアへの抵抗と独立を求め1989年にエストニアのタリンからリトアニアのベリニュスまで200万人が手を繋ぎ700キロの人間の列を作った。巨人が多いので200万人で700キロに延びたが、他の国では200万人で600キロくらいだったかもしれない。親日国と言われているが、現地のガイドさんによると現地に住む日本人は少なく、日本人と分かれば親切にしてくれるが、お店などでの接客は共産党下のソビエトの影響が残り、つっけんどんな対応に感じる事が多いでしょうとの言葉は実感として感じたことである。

 

いよいよ4月26日はこの旅の実質的な最終日、早朝6時半にホテルを発ち空港へ向かう。途中小雪がぱらつく。それでも今回の旅は早春の天候で、手袋はいらず、かろうじて冬の寒さは避ける事が出来た。1時間半のフライトで初日に乗り換えのために立ち寄ったポーランドのワルシャワ空港へ着いて市内観光をする。

ワルシャワの街並み

キューリー夫人の生家

旧市街に入る門

聖十字架教会、キュリー夫人の生家、ほとんどの市街はナチスドイツに破壊され、其の後1951年から再生されたものである。

王宮前広場

            聖十字架教会のミサに侵入

王宮

ここで添乗員釣巻さんから、「時間があるので皆さまが良ければ午後予定になかった王宮の中の見学と、その後ショパンの生家を案内いたします」という嬉しい申し出。

王宮内部

その後、片道1時間ほどのショパンの生家であるショパン博物館へ。ショパンがこの部屋で生まれたと言う部屋が保存されている。

立派な庭園があり、庭内にどう見ても桜の花と思える花を見つけ、日本人はショパンが好きだから、きっと日本が送ったものだろうとスタッフに聞くが分からないと言う。入り口のチケット売り場にいた若い女性は英語を理解し、すぐに私のとった写真を携帯で撮って、植物の名前を写真から教えてくれるサイトで調べてくれた。「さくらと示されていますから桜に違いないでしょう」と答えてくれた「桜ならおそらく私の国、日本から来ていると思う」と教えて上げた。

 

 

サクラが咲いている

その後、ChatGPTで調べたら、やはり日本政府と、ショパンを愛する日本の団体により、2000年代初めに「友好の桜」として日本から送られ植えられたものであることが分かった。しかし、其の記念館に務める人たちの3人が3人とも、それが桜であることも、どういういきさつで植えられているかも知らないとはがっかりである。友好国と言われながらも20年たったら忘れ去られてしまうのはこれだけではないだろうが、少なくともそれが日本から来た桜であることを私が館員に教えたので、少しだけ日本とポーランドの友好の助けになったかもしれない。

 

ポーランドが生んだ偉大な作曲家ショパンの人気曲で旅を振り返ります:https://www.youtube.com/watch?v=CJV4l0cnNO4&list=RD0xOD1rhDlgo&index=11

 

7時前に空港に戻りチェックイン。搭乗の10時過ぎまで、ビールを飲んで待つ。予定より少し遅れて日本へ向けて発つ。12時間半のフライトで成田に着くと雨が機体の窓を打つ。日本の天候に戻り、これで楽しかった思い出を造ったバトル三国とポーランドの旅は終わった。荷物受け場で皆さんとお別れの挨拶。

私も佐野さんも、ずっと個人で旅をしてきたので、旅行会社のグループツアーは日本に帰ってからが初めての参加でした。しかし、参加してみれば確かに楽で心配が少ない。それでもなるべくグループ全体が快適に旅が出来るよう添乗員さんに協力し、必要ならメンバーを助けるよう心掛けていた。自分も含めて、事故も、大きな忘れ物も無く、無事に帰って来れた。

今回の旅は2か所で連泊、日程的には緩いツアーかと思ったが、連日1万5000歩前後歩きまわりくたびれたが楽しい旅であった。体力には自信があったが、歳と供に体力の衰えは認めなければならない事実であろう。バスの運転手さんは最終日以外、ずっと同じ人が努めてくれた。佐野さんを始め、添乗員の釣巻さん、そして一緒のグループで一期一会の出会いであった皆さま、楽しい旅でした、お疲れさまでした。有り難うございました。

 

空港にて阪急交通の添乗員・釣巻さんとツーショット

解散後、佐野さんとアメ横に直行して飲みながらの反省会。バルト三国は正直に言って美味いものはなかったので、久しぶりの日本食は美味かった。ホテルについてすぐに佐野さんがクレジットカードを一軒目に忘れてきたことに気づき、取りに戻る。さすが日本、お店の人が忘れ物として保管してくれていた。ホテルに戻る道すがら、当然もう一度反省会。

反省文を書く佐野さんと思いきや、阪神交通のアンケートでした

今夜一泊して築地で美味い物を食べてから、それぞれの生活に戻る。明日からはしばらく禁酒である。

 後編  完

 

Kozakai Takashi

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バルト3国とポーランドの旅・ 中編

3日目はビィリニウスの前にリトアニアの首都になっていたカウナスへバスで1時間少し移動し市内観光。

旧市庁舎

大聖堂内装

街並み

 

そして少し離れた「日本のシンドラー」と言われ、第二次世界大戦中に行き場のない1600人のユダヤ人に日本経由の命のビザを発行した杉原千敏(チウネ)氏が勤務した旧日本事館の杉原記念館へ。時代の流れとしては、1939年からナチスドイツはポーランドに侵攻してユダヤ系の住民を迫害し始め、命のビザは1940年に発行され、1941年の日米開戦前に家族も含め6000人のユダヤ人が日本の神戸経由で、その多くはアメリカに渡る事が出来たそうだ。

旧日本領事館入り口

 領事館は閑静なこの国の高級住宅街の中にあり、入り口には桜が咲いていた。当時杉原領事は日本からの外交官としては一人で、家族とここの2階に住み、地下と一階を領事館として使い、仕事をしていた。領事としてのその当時の実際の仕事を考えると語学に堪能であった杉原さんはロシア、ドイツに関する情報活動的な仕事が主だったのではないかと言われている。日本人だけでなく、次々に観光客が訪れる、何となく日本人であることが誇らしい。

 

杉原領事の執務机

ビィリニウスに戻り、私たちはオプショナルツアーのトラカイ城観光へ。トラカイ城はここにリトアニアの首都がおかれていた時、数代による、なとか大公により騎士団の侵略を防ぐため築かれた湖に囲まれた居城である。ここもそうだが古い建物はオリジナルの壁は修復されたり、上に漆喰が塗られているが、一部分をわざと漆喰を落し、オリジナルの姿を残して見せてくれている。

湖に囲まれたトラカイ城

添乗員釣巻さんが晒し者の刑のモデルになってくれる

城壁内には拷問道具の展示があり、井戸の中をのぞくとロシアのプーチンの写真パネルが絞首刑になっている姿が見れるようになっており、リトアニア国民のロシアに対する恐れと反感の気持ちが垣間見られる。

市内のロシア大使館の入り口すぐ向かいの建物の壁にもプーチンが白骨化した大きなパネルが張られていた。ロシア系の住民も多いので、何時ウクライナと同じ道に引きこまれるか分からない怖さを国民は感じようで、至る所にウクライナの国旗を掲げ、ロシア嫌いの意思を鮮明にしている。

同じホテルにもう一泊。このグループの中に新潟県長岡からの夫婦がいる事を知る。旅での楽しみは普段接点のない人たちと出会うことも旅の楽しさであり、思い出でになる。話してみないと分からない事であり、今までも共通点のある人との偶然の出会いがあった。旅先ではなるべく多くの人に話かける様にしている。

 

 このIBISホテルはそこそこ綺麗なのだがヨーロッパに多い狭くて、タオルはバスタオルだけ、冷蔵庫も、湯沸かしポット、ペットボトルの水、テッシュも置いてないホテルである。

 

4日目、ビュッフェスタイル朝食の後、次の国ラトビアへバスで3時間少しの移動。郊外に出ると高速道路の両側はまだ芽を吹かない白樺の白い幹が目立つ。

 途中、シャウレイの『十字架の丘』で十字架を購入して奉納(?)する。裏には Pray for Love &Peaceと書く。ここは墓地ではない、ソビエトそしてロシアの勢力に抵抗する蜂起と犠牲者への鎮魂の場所である。

             右が私の納めた十字架

昼食は肉入りジャガイモ団子の「シェベリーナ」だんだんとジャガイモ責めの食事に飽きて来る。個人的にはもう少し自由にメニューを選べる機会があった方が良かったが、言葉の壁があるとなかなかスムースに行かず、添乗員が間に入り時間がかかる。バルト三国はほとんどの若者は英語を話すと聞いたが、そのレベルはバラバラである。私も事あるごとに参加者を助け、観光中はなるべく行列のしんがりを務め、添乗員の手助けをしているつもりである。このグループの女性たちは海外旅行を趣味にして何か国も行っている人も多く、言葉のハンディーをものともしないシニアレディーのパワーには圧倒される場面が多い。

 

午後からラビトラのリガに入る、首都リガはバルト三国最大の都会。

ヨーロッパ最大の中央市場でゆっくりと時間を過ごし、お土産のチーズを買って、ビールを一杯。夕食はまたポテトがメインの郷土料理。ここにも、そしてリトアニアにも壁画ならぬ落書きが見られる。せっかくの歴史地区が落書きで汚されているが、日本でもアメリカでもこの落書きの文字の筆跡は皆同じ。一説には、一人の男が世界中を回って落書きをしているのではないかと言う話もある。(笑)

市場にて、ビールは種類も多くて美味い

市場には魚が売られていたが、あまり食べる機会はなかった

        世界共通の落書き・グラフィティ


 
バルト三国最大の都市リガは何処を見ても美しい街並みの世界遺産。

 

ラデソンホテルは、ソビエト時代からあると聞いて、古めかしいホテルを想像していたが、かなりきれいで立派なホテルであった。室内の調度品も昨日までのホテルとは違い、歯磨きセット以外は日本のホテル並みの物がほぼすべてある。ここに2泊は嬉しい。

夜の9時近く、ホテルの窓からの夕暮れの風景

 リガ2日目の午前中は市内観光でバスで移動中、官庁が並ぶ公園で「あの人が大統領です」と同乗していた現地日本人のガイドさんが叫ぶ。SPを連れた大統領が散歩する姿を急いで撮影。

左から二人目の黒い衣装の方がラビトラのリンケービッチ大統領

今は大統領官邸になっている元はリガ城があった処の周辺は歩いて回れる観光地。

アールヌーボ様式の建物が美しいアルベルト通り。リガ大聖堂のステンドグラス、聖ペテロ教会、ゴシック様式の聖ヨハネ教会。

 

15世紀の古い民家

屋根の猫の像はギルドに入れてもらえない商人の反骨意志

リガ大聖堂

リガ大聖堂のステンドグラス

昼食前は1時間ほど自由時間があり外は寒く近くのバーに入ってホットワインを飲んで身体を温める。

佐野さんと行ったスイスで覚えたホットワイン・グリューワインで温まる

今日も食事にポテトは付き物のよう。昼食を取った場所は添乗員釣巻さんが「この通りをまっすぐ行けば、我々のホテルですから今夜の各自とる夕食にここまで歩いてくるのも良いですね」と言われこの広場の周りに並ぶ雰囲気のいいレストランが気に入った我々は夜にまた戻ってみるつもりである。

              ブラックヘッド会館

午後からオプションのルンダール宮殿へ片道1時間半の移動。宮殿前で幸せを呼ぶと言うコウノトリの巣を見つける。広い宮殿の中を見学。昔の優雅な暮らしを思わせるが、王家の人たちも毎日ポテトを食べていたのであろう。広い庭を歩き、今日の歩数はどんどん増えていく。

             巣の上のコウノトリ

バルトのベルサイユとも言われるルンダーレ宮殿

寒い国には暖房施設が古くからあるのに感心する


夕方6時に一度ホテルに戻り、佐野さんと広場の周辺の昼間目を付けていた繁華街、ナイトスポットへ飲みにでかける。北国の夜は短く、午後9時過ぎまで明るい。昼食時に添乗員釣巻さんに「ここをまっすぐ行けばラディソンホテルのすぐ前に戻りま」という言葉を記憶していたのでほぼ一直線で行けるはず。

我々のラディソンホテルとロシア正教の教会

夕食お酒を飲むため、昼間行った広場に向かう。直接行けば大した距離ではないところである。方向感覚に自信があると言う佐野さんに付いて行ったらなかなかつかない。まっすぐ行けばそこに行けると聞いていたのに右へ右へと行っているようなので、位置確認のため一度川沿いに出てみる事にする。川に出ると三角屋根の図書館が遥か左の対岸に、もっと左に向かわなければならない。

ダウガバァ川と対岸の三角図書館が見えた

途中工事中の人が居たのでラデソンホテルとロシア教会が写った写真を見せて、「ここに行きたい」と伝えるとやはり川沿いに左に行かなけらばならなかった。すぐに昼に行った川の近くの大統領官邸が見つかり、次の橋まで進むと、やっと見覚えのある広場のテントが見えた。

1軒目はビールとイカのフライ、あまり美味くないので食事は次のお店でホットワインとサラダ、スープ、フィッシュ&チップ、チキンステーキかなりの量で味もまあまあだがやはり食べきれないほどのマッシュトポテトとフライドポテト。帰りは真っすぐ通りを進むとホテル前の場所に一本ですぐに戻れた。遠回りはしたが、それもまた旅の思い出であり、楽しい時間だったのですべてOK。今までも今も旅行に出て、佐野さんと旅先で繁華街に繰り出しバル巡りのはしご酒をするのが楽しい。ホテルに戻って最上階27階のスカイラウンジに行ってみるとクラブになって居て、観るだけで席には着かなかったが、夜11時近いのに満員で賑わっていた。外には今夜でお別れとなるリガの夜景が広がる。

今日の歩数は今年最高の2万5千歩を記録していた。

中編 完 後編に続く

Kozakai Takashi

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バルト三国とポーランドの旅 ・ 前編

今回は久しぶりの50年来のアメリカからの気の置けない友・佐野さんとの旅である。互いに40年以上をアメリカで過ごし、私は9年前、佐野さんは5年前に永住帰国した。その間、彼とは色んな所に旅したが、今回の行き先はヨーロッパのまだ行ったことのないバルト三国とポーランドである。かってはドイツ・ナチスと、旧ロシア連邦の下で厳しい経験をした古い東欧の雰囲気の残る国々である。ソビエトにいじめられた国は、大概親日国が多いと言う。

 

ずっと同行してくれる添乗員の釣巻さんから2日前に電話で挨拶を受けている。4月20日、東京駅の「銀の鈴」で佐野さんと午後1時に待ち合わせ。離陸までにはまだ11時間もある。東京駅の中はいろんなお店が入り、見どころ満載。地下のグルメ街で海鮮丼を食べた後、天皇陛下に挨拶の為(?)、皇居に向かう。皇居は初めてという伊豆の田舎から来た佐野さんは都会の一等地にある皇居周辺の広さに感心し「これが、今回の旅のハイライトかもね」旅はまだ始まっていない。

 

しかし、あいにく今日は月曜で皇居内にはどこの門からも入れないと言うので、内堀の周りを歩き回って外から皇居を見て東京駅に戻る。東京駅の建物自体が文化財で趣きある建物。八重洲口からバスで成田空港へ向かい4時半に空港に着く。

 

出発は22時50分で有り余る待ち時間を空港内を歩き時間を潰していると、携帯から突然の「緊急地震警報」すぐに青森を中心にした震度5強の地震と分かるが、新潟市も震度3あったのでかなり揺れたよう。我々の旅行に影響はなかったがこういう時、新幹線はすぐに止められるので影響を受けた人も多かったことだろう。

 

成田に最近出来た展望台のある5階の足湯にはいる。出発前のひと時をビールを飲みながらの足湯。目の前には飛行機が発着している。

足湯から上がったら、「足場では飲食をご遠慮ください』との表示に気付くが too late.

2万円をユーローに両替して、チェクインの為、宅急便で送った荷物を受け取り19時50分集合の阪急カウンターで添乗員の釣巻さんに会い、簡単な手続きの後、ポーランドエアの長いラインにならぶ。それらしいラインが2種類あり、一つはオンラインでチェクイン出来ている人、一つはこれからチェックインする人、我々の団体旅行はどちらになるのか、長い列と短い列の方を行ったり来たり。結局すでに釣巻さんがチェックインしてくれていたので短い方のラインで良かったのだが、200mほどあるターミナル1、南ウイングの中を何度も行き来して、ここまで私は1万6000歩、佐野さんは1万8000歩で出発前に体力を消耗する。

 

着陸前にきれいな朝日。12時間のフライトでポーランドのワルシャワ空港に着くと、その後リトアニアに向かうフライトまで1時間15分の乗り換え時間がある。


ここで初めて今回のメンバー全員が顔をそろえる。女性15名、男性5名のグループである。其の後、知った情報では仙台から佐賀まで、全国から参加した方々で何度か海外旅行の経験のある方たち。

 

ポーランドへの入国検査はEUへの入国検査でもあり、時間がかかり日本人二人でやる仕事を5人でしている感じだが、指紋検査、手、服の違法薬物のふき取り検査などEU諸国の最初の入国となる空港では厳格な検査もやむを得ないのだと言う。しかし並んでいたラインの係員が突然いなくなり、次々と窓口が変わるのは勘弁してほしい。

乗り換え待ちの時間、空港内で物価のチェックをすると、ペットボトルの水が220円、ビールの大ジョッキ1300円とほとんど日本と変わらないレベルか。

 

1時間少しのフライトで隣国リトアニアの首都ビィリニウスに到着。この国は1990年の独立までポーランド、ドイツ、ソビエト連邦に翻弄されてきた歴史を持つ。空港から市内に入ると旧ソビエト時代の古めかしい公営住宅が続く。そしてソビエトから離れれた後の近代的な建物も。

 

市内を流れるメリス川のほとりに桜の咲いた公園がある。第二次世界大戦中「命のビザ」を発行してユダヤ人の命を救った杉原千敏領事を記念して、その思いを後世に残すため日本から送られた桜である。今、正に満開、小学生たちが熱心にその歴史を学んでいる姿に感銘を受ける。今でもロシアの姿におびえ、ウクライナを支持していることを示すウクライナの国旗が方々で見られる。子供たちの未来が明るい社会でありますよう。


 
世界遺産の市街中心部はヨーロッパに残る最も広い旧市街の一つで美しい町並み。そして聖ペテロ・ハウロ教会、大聖堂、夜明けの門、聖アンナ教会の観光。緑の首都と言われる街中には40%の森林部が残り、メリス川の対岸には近代的なビル群が並ぶが高さ制限があるのかほとんどが低層のビルである。旧市街は教会が多い。そして添乗員釣巻さんの地理、宗教、歴史などに対する大学の講義のような内容の知識の深さにその後も感心する事になる。

ヴェリニュス発祥の地ゲディミナス城

大聖堂と鐘楼

大聖堂内部

 

聖ミカエル教会

聖アンナ教会

旧市内歴史地区の世界遺産の中でのランチはバルト郷土料理「コルドゥナイ」これは餃子でしょう。観光していて一番困るのが有料トイレが多いこと。なるべく無料のレストランやお店で済ませても、シニアは生理現象を我慢できない、やむを得ず使う有料トイレは場所によって0.5ユーロー(94円)から2ユーロー(375円)もする。出したおしっこは飲んだワインよりも高いか?それにしても飛行機による移動は便秘気味になり佐野さんは「腐ったものでも食べたら一発で出るよ」とおっしゃる。(笑)

 

聖ペテロ・パウロ教会

大聖堂内部

夜明けの門

観光中に小学校高学年くらいの子供が二人自転車で追い越しながら、「ニーハオ!」という。思わず、I am not Chinese, I am Japanese!と叫んであげた、先ほどの杉原領事を勉強していた小学生は何だったのか、教育の成果が出ていないじゃないか!と、子供たちの未来が不安を感じる。ベットの角に足をぶつけた佐野さんベットに向かってお怒りになる。歳を取ると誰もが怒り易くなるって本当のようだ。(笑)(笑)(笑)

美しいベィリニュスの街並み

ホテルから歩ていけるスーパーで缶入りワインとペットボトルの水を調達。買い物の後ホテルの食堂で夕食。ホテルのビュッフェは種類も多くまずまずで主食はポテト。寒冷地で野菜の取れないバルトの国ではあまり食事は期待できない。しかし、この国のビールは種類も多く、なかなか美味い。ワインはすべて輸入もの。部屋でも軽くワインを飲んで就寝。

前編 完  中編へ続く

Kozakai Takashi

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