雪よふれふれ、もっと降れ

肩の腱板裂傷の手術から4か月半が過ぎた。年明けからは2週間に一度の病院でのリハビリと自主リハビリで可動域を広げ肩がスムースに動けるよう努力をしている。腱板そのものは、もうかなりの強度に回復しているかとおもうが、まだ先生からは重い物を持つことと、強い運動は禁じられている。下半身の運動をしながらスキーへの復帰を目指している。

 

高校のOB会で、毎回参加している六華会のスキーツアーが今年も2月18日から2泊で妙高観光スキーリゾートで予定されていたが、私は今回は肩の怪我で参加しないつもりであった。しかし、参加者の名簿を見て、一日目はスキーをしない方たちも多く参加されるのを見て、急に参加したくなり参加をお願いした。ついでに何時もの新潟の相棒O君に声をかけると、スキーをしなくとも、妙高への一泊温泉旅行に参加したいというので、一緒に行くことになった。六華会の半分は東京方面からの参加者で、私より年上の先輩がメンバーの半数を占め、一緒にいて心地良い集まりである。

 

18日の朝、O君をピックアップして、私の車で妙高へ向かう。

赤倉の宿である『金型あかくら荘』に荷物を置いて11時半に東京から到着する仲間の出迎えに妙高高原駅に向かう。駅に着くと、地元のメンバーが続々と集まってくる。やがて列車が着き、まずは外人のスキー客が何人も降りてくる。そしてY会長をはじめ我々の会のメンバーが到着する。六華会はもともと東京在住の卒業生が創立した運動部の活動を支援する団体であったが、今では東京。上越以外の人でも高田高校の卒業生であれば受け入れている。私は帰国してすぐに仲間に入れていただきO君もBOなので入会の資格があり、Y会長から入会の誘いがあり、今回から入会するそうである。おそらく来年はスキーもしてみようかと言う気になっているはず。

3時までチェックインの出来ない宿のロッカールームをかりて着替えて、スキーをしないO君らを残しスキー場に向かう。ゲレンデは快晴で目の前に妙高山が見えて、まるで春のような温かさ。積雪は平年の半分に満たない。2月中旬と言えば平年は最も寒くて積雪の多い時期でなければならない。気象は農作物の収穫とも関係し、その変化はやがて水不足や、極端な酷暑、やがて物価高となり生活を脅かすと知っておかなければならない。スキーヤーでない方も、雪が少ないと喜んでいてはならない、本当は平年並みの寒い冬が安定した生活を続ける為に必要な気候なのです。


まずは一本滑ってみる。ゲレンデのレストランで軽い昼食を取り、肩をかばいながら無理なく流して滑る。この斜面では転ぶ事は無いが、後ろからぶつかって来るスノーボーダーが一番怖い。時たま後ろを振り返りながら斜面を降りる。実はまだ肩にはドクターストップがかかっており、ポールを突かず、無理なく安全なスキーを心がけて滑る。そういえば私の肩の手術をしてくれた新潟済生会病院の塩崎先生も高校の後輩であった。

 

午後から2時間ほど滑って、私は他の人より一足早く3時にあがり、宿に戻りチェックインする。部屋にO君が見当たらないので温泉に行って戻ると、先輩の部屋から戻っていたO君と合流。私も先輩方の部屋に挨拶に行き、しばらく雑談。今回の参加者は総勢26名で5部屋、うち一部屋が女子部屋である。夕飯前に飲み会が始まり私らの部屋では私とO君が最年長で、先輩・先輩とおだてられて杯が進む、いやいや今夜は痛飲しそう。

去年亡くなられた3人の仲間への黙とうがあり、6時から宴会が始まるがビールの外に何本かの日本酒、ウイスキー、ワイン、などがかなり出てきたような気がする。建物もきれいで、これで先輩や地元のコネクションもあり、料金は驚くほどリーズナブルである。。

 

故郷に帰ると、話せばいろんな人との繋がり、関わりが有ることが分かる。今回も私にもO君にも幾つか新しい発見があった。体操部のコーチであったY先生に以前O君の事を話したら、「バレー部のOか」と覚えていらした。数多い生徒の中で50数年経ったいまだに先生が名前を憶えているのは、よほどの優等生か悪ガキと決っている。Oは当然後者の方かと思ったが意外と評判が良い。そのY先生は付属で私の父の教え子であったり、Oの母親が産婆さんだったので、お世話になった人がいたり、親の世代で付き合いが有ったり、地元では話せば話すほどいろんな繋がりが見えてくる。

 

夕食でかなり飲んで、コロナで禁止になっていたカラオケルームが今年から解禁されたので会場を移し、10時までカラオケ大会ですごす。去年の六華会に参加の後、8月に亡くなられた唄の上手かった大森先輩を思い出し涙が出てしまった。大森先輩は私と3歳離れていたが体操部のOBであり、先輩は高校卒業後も夏休みの部活に何度か顔を出してくださっていたので、高校の時から存じあげていた。そして、この六華会でも私が6年前に帰国して参加すると、何かと気遣ってくださり、声掛けをしてくださっていた。

最初の参加から、休みなく滑る大森先輩を見てさすが体操部の先輩だと思っていた。昨年の六華会では一日滑って、膝が痛いと翌日は滑らなかったが皆に心配をかけたくなかったのでしょう、そのころから癌の影響があったと後でY会長から伺った。

大森先輩お疲れ様でした、有り難うございました。

カラオケの後、部屋に戻ってさらに宴会は続く。南極越冬隊長であったYさんも先輩部屋から来てくださり飲み会はまだ続く。この会の面白さは、いろんな年代の、いろんな経験をされて来られた方たちと話せて話題が尽きない事である。私の人生も相当に変わった人生であったが、皆さんの経験、知識は私が出来なかったことなので、興味は尽きない。

翌19日は、荷物をまとめて、朝食の後、今朝帰る方々とお別れして、朝からゲレンデに出て11時半まで滑る。もともと私は18日の午後半日だけ滑るつもりであったが、滑ってみたら、無事に滑れて、やはり面白い、せっかく来たのだからもう半日と欲が出る。


11時半にケーブルカー乗り場向かいの、『ベーカリーテーブルあかくら』に降りて昼食。その後、上越タイムの取材と集合写真の撮影があった。ここのスパゲティーは値段が高いのにまったく美味くない。粉チーズとタバスコで味を変えて食べるが、それでもどうにもならないくらいクソ不味い(失礼)のである。レストランの方、何とかして欲しい。外で集合写真を撮った後、皆様に挨拶をして、O君と帰路に就く。来年は完全復帰で2泊の参加が出来る事でしょう。


途中、高田の実家に少しだけ寄って、半年ぶりに母に会ってから新潟市へ帰る。先月1月2日に102歳になった母は玄関先で私を待っていてくれた。年々体が不自由になりながらも、頑張って生きている母の姿は人生のお手本だと思っている。ここに母が100歳の時に書いてくれた『100歳の教え』があるので添えておきます。

            母の100歳の教え

途中で運転を変わってもらうとしたらO君、出がけに残りのビールを一缶飲んできたとおっしゃる。やっぱり後者でしょう。

         上越タイムス2024-2-20

 

今週のミーちゃん