春スキーと桜+エピソード33 TV撮影秘話

今回は主にアメリカの友人たちのために、日本の桜の写真を多く貼ってみました。

 

例年より暖かい日々が続き、桜の開花も早い。しかし、新潟では咲き始めから満開までは一週間位かけてゆっくりと進んだように思う。

新潟市の桜が満開になった4月2日,白山公園、信濃川沿いの桜を観に行く。週末の桜の下は家族連れでいっぱいであった。

 

私はコロナ禍でも例年、裏の公園で仲間と小規模な観桜会を開いてきた。今年も桜の咲き加減と、天候を見て開催を4月3日に決め、友人とゲストの5人で食べ物,おつまみを持ち寄っての「花よりお酒」の会を催す。3日はドンピシャの満開の桜と青い空。コロナも幾分安定し、久しぶりの飲めや、話せやの楽しい時間であった。


そして5日の朝早くミーちゃんもつれて高田に帰郷。家内とミーちゃんを高田で下し、私はそのままロッテ新井リゾート・スキー場へ向かう。ここは新潟のスキー場の中でも一番雪の多い場所で春の今の季節でも上の方にはまだ十分な雪が残り、ロケーションも高田からは妙高より近い。もともとソニーが80年代に開発したスキー場で、その後10年ほど閉鎖されていたがロッテが買い取り再開発し、ロッテアライリゾートとしてホテル、温泉、レストラン、スキー場を運営・営業している。私はこれが3度目。

値段が高いのがネックであったが、春先のシニアは3800円と、だいぶ周辺のスキー場に合わせた料金になっていた。駐車場に着くとすでに高校での同級生H君夫妻が滑っていて、ゴンドラ降り口で合流。

何とか天候も持ってくれて、雪のある上のコースで滑る。コンデションは春の荒された雪質であるが、これが今季の滑り収めであるから十分である。途中からポールが立てられていたコースが空くと、ここのゲレンデは荒されていなくて滑りやすく満足のコンデェションであった。1時過ぎにあがり、ホテルのレストランで割引券を使ってカレーを食べ、今日のもう一つのハイライト、高田城址公園の観桜会にむかう。花見の季節は車の駐車が大変であるが、私の実家は公園まで歩いてすぐ。実家ではなく近くの姪の処に車を停めてH夫妻と桜を観に行く。

幾分遅いかと思っていたが、今年はこれまで雨風が少なく、まだ今日は花見としては散り始めのいいタイミングである。コロナで数年出店、飲食を禁止されていた公園内も今年は元の賑わいを見せている。お堀の周り、公園の中を歩いて日本三大夜桜の故郷の桜を楽しんだ。

ロサンジェルスにも気候に合わせ改良された桜が日本から贈られ、何か所かで見ることができた。しかし、日本の様な大木の桜はなかったが、今はどうなっているのであろう?永いアメリカ暮らしから帰って観た日本の桜は格別であった。とりわけ昔と変わらずに咲き続ける故郷の桜は感動的に美しく有難い存在である。

 

世界一気候が良いと言われていたLAでも今年は低温で雨が多く、初めて平野部に雪が降ったと聞いた。マンモスは今の季節でも新雪がつもり2011年の記録を破る積雪量になっている。ますます不安定な世界気候である。

 

久しぶりのスキーで、だんだんと体力の衰えを感じる。しかし、先日101歳の母が選挙に行ったと言う話を聞けば、もっと体を動かして頑張らなければと思う春の日である。

 

エピソード33 TV撮影秘話

1980年代中頃と思うが日本で「金曜日の妻たちへ」通称「金妻」というドラマが放送されていた。そのころ、金妻のアメリカでの撮影があり、コーディネートをした友人から連絡があり、「日本からのテレビドラマの撮影でトラックとトラックドライバーを手配してもらえないか?」という要請があった。その時の条件は白人のドライバーで、砂漠で道路わきに倒れていた日本女性を助けて街まで送る、と言う若干セリフもある役と言う事であった。

 

港に出入りする弊社のローカルドライバーは土地柄メキシコ系のドライバーが多く、白人のドライバーは少ない。一方、全米を走るトラックドライバーはほとんどが白人であったので、深く考えずに、全米を走るドライバーから、ちょうどその辺にいる白人で撮影の為少し演技が出来る人というドライバーを実際に見ることなくピックアップしてロス郊外のパームデールの砂漠地帯に送り撮影隊に合流させた。アメリカでは仕事上で人種的差別をしてはならないので「白人の」と言うのは微妙な言い回しになるし、どんな顔かより白人のドライバーであることが絶対条件であった。

 

撮影は無事に済んだと聞いていたが、その後この話には続きがあり、それから1週間後くらいに、そのドライバーが弊社の敷地に荷物を取りに来た際、私のオフィスに来て、「あの撮影のテレビドラマのコピーをもらえないか?」と聞いてきた、私の第一声は「あなたが、あの時撮影に参加したドライバーか?」であり「私も見ていないのでコピーは無い」と言った私の顔は引きつっていたと思う。

なぜならば、そのドライバーは一言でいえばとんでもない悪人面で、歯並びも悪く映画「ホームアローン」に出ていたドロボー役にそっくりの人相であった。私は出来あがってからの作品は見ていないが、女性を助ける正義の味方のドライバーのはずが、日本で没にならずあのドライバーでそのまま放送されていたのなら、あれは言い訳出来ない私のミスキャストであった。

 

かぐらで想うーSやんと

四国出身のSやんとLAのリトル東京で会ったのは私がアメリカに渡って1カ月ほどたった頃だった。彼とはその後、中米を一緒に2カ月ほど旅をして、LAに戻りハリウッドで4人でアパートをシェアして暮らした時のメンバーであり、学校に通いながらヤマトレストランで一緒に働き、LAでスキー通いを始めた時のスキー仲間でもあった。彼無しでは私の渡米初期の5年間は語れない親密な友人の一人であった。

 

80年代初期に先に日本に帰国したSやんとは帰国時や、カナダで落ち合ってスキーをしたが、行き違いがありその後15年ほど交友が断たれていた。今年になり、急に彼からフェースブックに私の名前が表示されたと、連絡があり、「湯沢のかぐらスキー場に行ってるので、来ない?」というお誘い。

スキーより懐かしさもあり、会いたかったので一泊で合流させてもらうことに。19日の朝、家を出ると、2時間45分ほどでかぐらスキー場三俣入り口のロープウエイ乗り場に着く。Sやんに電話を入れて12時の集合場所へ向かう。彼はここ数年間多い年は年に90日もかぐらに滞在して、こぶの滑りのレッスンを受けているという。彼が用意してくれたおにぎりをいただき、周辺で滑ってレッスンの終わる3時まで待つ。

今日の雪質は最悪の圧縮された硬い雪面でスキーとしては面白くない。それでもSやんと15年ぶりに一緒に滑れるのが嬉しい。それまでほとんどスキーをしたことがなかった彼をLAのローカルにあるスノーサミットへ誘い、最初にスキーの面白さを教えたのは私である。その後数年間一緒にスキーに通って滑っていた時を思い出す。

1975年の夏の終わりに、4人の同居人たちがハリウッドにアパートを借りて生活を始めた。http://www.skizanmai.com/natsunokaze.htm

最初にKやんが2年ほどで帰国し今は宇都宮周辺5か所くらいで幼稚園を経営している。SやんはUCLAに進み、5年後くらいに帰国した。Nやんだけがアメリカに今も残り、日系の大手日本食料品卸会社の副社長になっている。その日本に帰ったSやんはA株で財を成し、一般の人から見れば破天荒な人生で、働かずに左うちわどころでない大うちわで後ろから扇がれ未だに追い風をうけて悠々自適な生活をしている。

 

ハリウッドのアパートを借りたあの日、「僕たち、また一歩ベバリーヒルに近づいたね」と言った日本から飛び出した4人の若者は、偶然にあの場所で出会い、一緒の時間を過ごし、その後それぞれが人生を生き、ベバリーヒルスには暮らせなかったが、40数年後の今、皆しっかりとした生活の基盤を築いて暮らしている。

 

スキーは午後の時間に南向きの斜面が緩み幾分楽しめたが、それ以外は良くなかった。ここは東京からの便もよく、春遅くまで開いているので、春先のこぶ斜面が有名なスキー場である。そのこぶもこれだけ硬い雪面だと試す気にもならない。Sやんはここの定宿「いたしん」にスキー道具などいろいろ預けたまま、毎年何日間も瘤のレッスンを受けていて、多いときはこの宿にシーズンに90日も泊まっていたそうで、おかみさんに「私はあなたの奥さんでもないのに、なんで毎日食事を作らなければならないのか」と、言われるほど親しく入り浸っていたそうである。

 

WBCの侍ニッポンの全7試合を観た。日系選手のニュートバーが話題となり、日本での予選からどんどん盛り上がり、スキーから帰った翌日からアメリカで開かれた準決勝と決勝は私が今まで見た野球の試合の中で特出して感動的な試合であった。私は2019年に3週間アメリカにリターンした時に幸運にも目の前で大谷のホームランを見ることができたが、アメリカに渡った大谷の姿を普段日本ではなかなか観る機会がない。

負けたら終わりの準決勝のメキシコ戦での9回裏の大逆転は最後まで息をもつかせない試合で野球の面白さを集約したようなゲームであった。

 

そして一発出たら逆転される決勝戦で最後に大谷が投げた相手トラウトは同じエンジェルスの3度MVPを取った偉大な4番打者であり、普段は大谷の大の仲良し。今回のアメリカ側のキャプテンであり、もうトラウトの年齢を考えるとアメリカの野球ファンにとって普段は同じ球団のこの二人が対戦する事はないと思われていた夢の組み合わせであった。

 

それがあの最後の場面で投手と打者としてまみえるのはあり得ない漫画(アメリカで言ったら映画)のようなストーリーだった。この準決勝、決勝はいずれも長く語られるであろう感動的な名勝負であった。結果は見事に三振で討ち取り、終わってみれば大谷に始まり、大谷に終わったようなWBCであったが、最高に面白かった。大谷の生きざまは才能が有るだけでなく、努力があっての賜物とおもう。驕ることなく常に相手をリスペクトするヒーローは すでに日本の誇りであり、これからも野球を志す者の目標であり続けて欲しい。

 

未だにテレビではWBCが語られ、まだあの感動の余韻が残り冷めやらぬ中、ここ新潟でも早くも桜が3分咲きとなり、間もなく私の今期のスキーシーズンも終わろうとしている。

 

今週のミーちゃん

      テレビの前で、そこにいると邪魔なんだけど

        猫は気まま、でもやっぱり可愛い

     じゃらし棒で遊んでやる。

春のおひな様 +エピソード32 LAの日系人

3月6日、胎内のスキー場が12日で閉まるので、滑りに行く。朝のうちは硬くてがりがりの雪面であるが、昼近くなると緩んできて滑りやすくなる。マンモスの春スキーに多く通った私はがりがりよりはべちゃべちゃの雪の方が好きである。

今の時期、滑りに来ているのはほとんどが近場からのベテランスキーヤーで上手い人たちばかり。また帰りは道の駅の公共温泉によって帰った。




8日にはいつものFさん、O君と城下町村上におひな様を見に行く。村上市では毎年、ひな祭りの前後に街の中心街の町屋で「城下町村上町屋の人形さん巡り」が催される。今回は54軒の町屋。商店が参加して各家が代々引き継いできたお人形を無料公開していた。

私は村上には何度か来ているが、人形巡りは初めて。Oくんは20年ほど前、この街で銀行の支店長として2年間赴任していたことがあるので、案内してくれて、何軒か挨拶のため昔通ったお店に立ち寄る。

村上は鮭が特産物でもある。


おひな様や人形のほとんどは京都で作られたものであり、中には江戸時代からの人形も公開されている。面白いのは江戸時代からのひな人形は笑っているのがあり、江戸以降の人形はすまし顔である。そして公家、侍の人形は細面の美男子であり、お付きの者は丸顔の田舎顔である。

帰りがけに胎内の「塩の湯」に、熱い温泉で何となく温泉効果が高いような気になる。


エピソード 32 LAの日系人

アメリカに暮らしアメリカの国籍、あるいは永住権を持つ日本に起源をもつ人が日系人であるが、アメリカではJapanese Americanと呼ばれる。戦後アメリカに日本から移り住んだ人たちは新一世と分類される。

 

今アメリカには混血も入れると日系人が145万人いて、そのうちが純血の日系人は約80万人。うちカリフォルニアに住んでいる純血の日系人は29万人で州としては最大とされている。私の暮らしたロサンゼルス郡には約13万人が住んでいる。

 

アメリカへの最初の移民は明治元年のハワイへに行った農園の作業員であった、戦前に移住し戦争中に強制収容所に入れられた人、日系人の名誉のためアメリカに忠誠を誓いヨーロッパ・イタリアの戦場に送られ、多くの犠牲者を出しながら包囲されていたテキサスの部隊を救い出した有名な442連隊など物語は多いが長くなるので興味があればネットで調べて欲しい。ここでは私が実際に会ったり、聞いたりした日系人たちの話をしたい。私は渡米してすぐLAのリトル東京とハリウッド界隈に暮らし、最初に出会ったアメリカ人の友達はリトル東京にいた日系3世達であった。

 

日系二世は親との会話は基本日本語であることが多く、親たちは最初は出稼ぎのつもりでアメリカに渡ったので、何時日本に帰っても困らない様、二世になる子供たちにも家でも日本語を話し、日本語学校に通わせ日本語の読み書きを教えたのでその人たちは完璧な日本語を話し理解した。今、社会で活躍しているのは4世、5世が主流であるが、3世になると日本語は聞くのは分かるが話すのは難しくなく。そしてアメリカ社会に溶け込み、どんどん他民族との混血が進んでいくのであるが、親には文化として日本のことを子供に伝えたい思いがあり、日系人も日本文化に積極的に触れ、日本人以上に日本的な精神、気持ちを持っている人たちが多かった。

 

また、学生の時に働いた大きな日本レストランには帰米二世と呼ばれる日本で教育を受けた二世が何人か働いていた。彼らは戦前に親から日本に送られて日本で教育を受けてアメリカに戻った日系人である。戦後日系人は教育に熱心で、仕事に励み、人種的にはアメリカでかなり優位な経済状態にある。

 

原則アメリカで仕事をするためには働けるビザを取るがビザにはいろんな制限があり永年延長するのは難しくなってくる。やがて永住権を取りアメリカで仕事を続け、市民権を取り一世となっていく。

 

私と同年代にアメリカに渡り、いまでも住み続けている仲間たちは永住権のままの人と、アメリカ国籍に変えた人とがいるが、市民権を取っても選挙権が有るか無いかの違いくらいで、一般的には日本人の場合、永住権を持っていれば、市民権迄とる必要性を感じず、そのままの方も多い。それは日本の政治経済が安定したしっかりとした国だからだが、他国からの移民は一刻も早くアメリカ国籍を取ることが将来の安心に繋がると考える人が多い。

アメリカに残った私の友人たちの子息はほとんどが純血日本人であり子供の時から親との会話は日本語を使い、日本語と英語を不自由なく話せる子が多い。中には日本語が話せる子息たちが日本で英語を活かして就職し、両親はアメリカに残ったと言う逆転生活をしている人も多いのである。またCAとNYに離れて暮らす家族にとって、CAと日本の距離感はそんなにNYと変わらない時代になっている。

 

有名な日系人としては、日系人初の閣僚となったノーマン・ミネタ運輸長官、442連隊で活躍後上院議員となったマイケル・イノウエ上院議員、スタートリックのジョージ・タケイ、ハワイ州知事ジョージ・アリヨシ、芸術家ノイサム・ノグチ、私の尊敬する1964年の東京オリンピ開催に尽力し、日系人の為の敬老ホームを設立したフレッド・ワダhttps://www.ifsa.jp/index.php?wadaisamu

その他、アメリカで暮らす新移民の人たちなど有名無名の多くの特出した方々がいるのである。今の日系人、日本人がアメリカで安心して生活できるのは、そうした先人たちの勤勉さで日本人、日系人が信頼を得れるようになったからである。

 

今開催中のWBCで大活躍して注目されているヌートバー選手も日系人であり、私の住んだトーレンスの北にありLA国際空港のすぐ南に位置するエルセグンドの出身である。LA郡のなかではエルセグンドはそんなに多く日系人の住む処ではないし、父親が日本語を話さないので、家では英語だけが使われる環境で育ったため日本語を話せないのであろう。しかし、他の日系人同様、日本人的な性格、考え方はしっかりと母さんから伝わっているはずで、これからのさらなる活躍を期待する。

 

今週のミーちゃん

笹団子の笹が大好きなミーちゃんです「頂戴、頂戴」と迫ってきます。

春が来る前に +エピソード 31 ドン・クワバラ

大雪警報で始まった今期のスキーシーズンであったが、湿った雪で溶けるのも早く、思いのほか早く春になりそうな気配である。しかし溶けた雪が凍ってその上に降った雪で表層雪崩が多く、各地で雪崩による遭難者が例年になく多く報告されている。安全のため、ゲレンデから出ないスキーを心掛けている。

 

2月23日から2泊のつもりで妙高にむかう。今日は赤倉観光スキー場の駐車場で夕方から広瀬香美のコンサートがあるのは知っていたが、10時半に駐車場の前を通るともう満車になっていた。H君から情報を受けていたので、そのまま金甚ホテルに行って車を停め、リフトチケットを受け取ってスキー場へ送ってもらう。そこで渡されたチケットが23,24の2日分。あれ?と思い、すでに滑っているH君に電話して初めて、今回のスキーは一泊の予定であることを知る。メールでは「23・24日の一泊2日で」と、あったのを、私が良く読まずに勝手に23と24の2泊の宿泊と思っていたのであるから完全に私のミスである。しかし、仕事を持たない自由人としてはどうにでも変更可能なスケジュール。

 

ゴンドラ乗り場には長いライン。今日は天皇誕生日で祝日でもあった。我が家では天皇誕生日より、その前日の2月22日のにゃんにゃんにゃんの猫の日の方が有名である。今日コンサートをする広瀬香美はアメリカのトーレンスの私の家の近くに住んでいたので、マーケットなどで見たという話は聞いたことがあり、ちょっと親しみを感じる歌手である。

すでに仲間はネープルのレストランで早めの昼食中だったのでそこで合流。

 

午後1時から金子プロに2時間ほどレッスンを受ける。雪質は、朝のうちは良かったそうだが、午後からは踏み固められた雪。ゲレンデも今日はかなり混んでいる。黒部から参加しているH君の友人で内科医のM先生と地元から参加のI君は今日は日帰り。

金子さんのレッスンは私はターンにはいる時に肩から入っていると指摘され、肩を前に出さずに外側に肩を落とし、外脚に体重を乗せていく練習。永年身に付いた癖を直すのは大変で、コツをつかんだころにはシーズンが終わる。そして来シーズンには忘れていると言うていたらく。それでも楽しく滑れたらいいか。

今日最後のランで赤倉観光ホテルの下の混雑する緩斜面。前を滑っていた女性が転倒していて動かない。そばにいた私とH君夫妻が駆け寄るが動かないのでパトロールを呼ぶ。しばらく動けないでいた女性は我々と同じくらいのシニア世代で顔面を押さえて痛がっている。転倒場面は見ていなかったが、どうやら後ろからぶつけられたと言っている。そして、すぐにぶつけった人も戻ってきて謝っていた。東京練馬のスキークラブの仲間と来たそうで、赤観ホテルに泊まり、今まで世界中で滑ったことがあるとか、急にすごく話し始めたので大丈夫かと思うが、念のためパトロールが来るまで、またぶつかる人がいないように守ってあげる。

 

パトロールの人が救助用のそりを引いてスノーモービルで到着したので、あとは任せて、我々は下る。六華会の先輩たちもおっしゃっていたが、高齢になって体力的にはまだ滑れるのにスキーをやめると決めたのはぶつかられるのが怖いからだと言う人が多い。確かに高齢になるとカラダも硬くなり、骨も脆くなり骨折しやすくなる。斜面の上にいる人に回避義務があるが、スキーは急には停まらない。スピードを出していなくても後ろから高速で突っ込んでこられたら大怪我をするかもしれない恐怖感は私も何時も感じて注意している。

 

H君の車でホテルに戻り、温泉へ。今日は東京のスキークラブの学生が18人泊まっている。食事の後、部屋飲みをしていたら10時ごろ金子さんからのお誘いがあり、いつものフロント前のモンブランで軽く飲み会。

 

翌朝、荷物を車に積んでチェックアウトして10時から滑り始める。11時から1時間半のレッスンを受けて、昼食を食べて解散。帰りに関山にあるシロキヤで久しぶりに同級生K君と会ってしばらく立ち話。その後、高田の実家によって新潟市に帰ったのは7時近くであった。

エピソード31  ドン・クワバラ

最近、南米チリ領のイースター島で、干上がった沼から新たなモアイ像が見つかり、話題になっている。イースター島はチリの本土から3700kmも離れた太平洋に浮かぶ島で、観光地としても行くには不便なところで、そこを訪れる日本人も少ない。

私が渡米してすぐにLAで会った桑原さんは私より8歳ほど年上の人で、放浪旅行をする旅人としては、すでに珍しい年齢であったが、とても魅力的な人であった。桑原さんは私がアメリカに入って出会ったときにはちょうど南米から上がってきて、その後私も通うことになる語学学校エバンスに通っていて私がしばらく滞在したリトル東京の安宿に暮らしていた。

 

桑原さんは今から50年近く前、まだイースター島を知る人が少ない、チリが軍事政権だった時にイースター島に渡り、海辺の地元の漁師の処に居候をして暮らしていた。ある日、島にある有名なモアイの石像を見に行った。桑原さんによれば、島民の中でもごく限られた人しか知らない、乳房を持った女性のモアイ像が, 島のある所に埋まっているという。掘って確認した彼は、また、そっと埋め戻しておいたそうだ。数年後、新発見と騒がれる日が来るかもしれないが、謙虚な桑原さんは、自らも考古学者として世に出ることを拒んだのであった。

 

彼は一族のほとんどが医者という裕福な家庭に生まれ、医学部への受験に失敗した彼は、それでもかっては一流会社に就職していた。新入社員歓迎会では社長から直々に「君の今後の活躍に期待しとるよ!」と声をかけられ、会社勤めをはじめる。

 

しかしある日、仕事中にあさま山荘の実況放送に遭遇し、喫茶店でテレビの前から離れられなくなり、自分はサラリーマンに向いていないと思い始めていた。決定打は出張で名古屋の会議に行く時、新幹線の中に傘を忘れた、下車をしてすぐに気づき、発車のベルが鳴る中、彼は列車に飛び乗り、会議より傘を選んで京都まで行った。それが彼が選んだ人生であり、その日に会社に辞職届を出して、やがて南米へ向かうことになる。

もう何年も彼とは連絡が取れていない、どこかで元気に暮らしていることを願う。

さらに詳細を読みたい人は

http://www.skizanmai.com/natsunokaze.htm

をご覧ください。

 

今週のミーちゃん

笹団子の笹が大好き





六華会の集い・雪のある限り

2月12日から2泊で高田高校の同窓会の六華会で作るスキー仲間と、赤倉で滑ってきた。

 

朝から快晴。8時に家を出て1時間半ほど高田の実家によって先月101歳になった母の顔を見てから、妙高に向かう。宿の「金型あかくら壮」に荷物を降ろして妙高高原駅に正午に着く東京方面からのグループを地元のメンバーと車で出迎える。懐かしい顔と数名の初参加者、後で加わる人も入れると総勢で24名(女性4名)の参加となった。コロナで3年間中止されていたこの会に参加するのは、私はこれが3回目になる。久しぶりに会う先輩方。参加しないと聞いていたY先生もスキーは無しだが一泊で顔を見せてくださった。高校でお世話になったY先生は私の父の教え子でもあると言う縁のある方である。私の帰国を待って一緒に滑ってくださった後、一応スキーを上がられている。

ホテルの前から道路に出た坂道は凍ったら車には有名な難所である

    ゲレンデへ出発前にホテルの玄関で記念撮影

初日の今日は午後からゲレンデに出て4時まで滑る。快晴であるが雪質は荒れて良くはない。それでも皆さんと滑るのは楽しく、赤倉温泉側で皆さんのペースに合わせて滑る。基本集合時間以外は自由滑降で誰と何処を滑ってもいい。Y六華会会長をはじめ会の幹事の方々、そして地元のメンバーのご尽力で3年ぶりの開催となり、地元のKさんの手配による3日間共通の格安チケットが嬉しい。皆この日を待っていたのか思った以上の参加者数でスキーのレベルもバラバラであるが皆雪国の出であるからそこそこ滑る方ばかりである。

 

ゲレンデの近くをヘリが飛ぶ。後で知ったがスキーヤーが一人、バックカントリーの林の中で片方のスキーが木に突き刺さり宙づり状態で抜けなくなり、救助要請をしたそうだ。今年は雪質が重く雪崩も多く、バックカントリーによる事故が多発している。

 

夕食後、いつもはカラオケタイムであるが、コロナ禍のため、会長・校長・隊長・絶好調と多くの長のおられる中から氷河・雪氷の研究者である横山宏太郎隊長(京大山岳部OB、南極越冬隊を2度経験、第35次隊の南極観測越冬隊長)から二晩にわたり南極、ヒマラヤのお話とスライド上映をしていただく。横山さんは10数回もヒマラヤに行かれており、私も1972年にインドからネパールに入りカトマンズ、ポカラに行っているので興味ある話で沢山質問をしてしまったが内輪の催しなので丁寧に答えていただいた。

 差し入れ頂いた新潟の名酒が美味い

今宵は南極ナイトで越冬隊の生活、施設、装備、遠征などを解説いただく。その後も部屋で飲み会は続く。

 

Day 2

朝から雨模様。今日は昨日と違う赤倉観光サイドの駐車場から入る。こちらは私にとってはいつも滑っているゲレンデ。ゴンドラで上に上がるとガスっているが、パラパラと湿った雪が降っている。何とか視界も持ってくれた。

ガスで足元が見えないほどではないので雪質は悪いが十分楽しめる。私と同期のSさんは数少ない女性参加者。以前から彼女がこの会のメンバーと知っていたが、私がアメリカから帰国して参加するようになったときは怪我のリハビリのため、すれ違いであったが、今回やっと一緒に滑ることができた。

昨夜から宿泊者が1名増えている。87歳のI女史はなんと、当日まで日にちを一週間間違えていて、昨日駅集合の時間に来ないので、会長が電話をして、間違いが判明。そこからが超人的な行動力で、「今日中に赤倉の宿に直接参ります」と、実際に参加された。スキー組では最長老のIさんは相当滑っておられる方で、我々の一番タフな組に入っても、止まらずに滑ってこられる。高齢になるとスキーそのものよりぶつけられるのが怖いと皆さんおっしゃる。車のように高齢者マークがあったらいいのに。「背中に年齢を書いてあげたいね」と、ヘルメットとゴーグルで分からないが、実際の年齢を知ったら周りは驚くことでしょう。確か60歳から本格的にスキーを始められ、80代で準指を取ったとおっしゃったと思う。

突然の参加で明日は2時の列車で東京に帰り、夕方6時から10時まで銀座でアルバイトと言うので、よもや「キャバクラですか?」と失礼なことを言ったが、お友達のジャズ喫茶で頼まれてアルバイトだと言う。そのエネルギーには脱帽の思いである。

 

昼はゴンドラ前のベーカーリー&テーブルでスパゲティーやピザ。食処新潟のスキー場としてはもう少し美味い食事がゲレンデで食べれるといいのであるが。石打・丸山のゲレンデの食事は素晴らしかった。10数店舗ある石打のレストランは、すべて地元の街中にあるお店が冬の間だけ別館として営業しており、街中のお店と同じメニューを提供している。

3時に上がって温泉へ。妙高はどこに泊まっても温泉に入れるのがいい。コロナで一度に8名迄という入場制限があるが宿泊客は我々の団体だけである。

運動部出身の会員が多く、この中では私もちょうど中堅どころであるが、先輩方の前では世が世なら私などまだ使い走り。しかし、この会は六華会会長自ら「ご飯の量は?妙高盛り?金谷山盛り?」と、ご飯のよそいまでしてくださる。同室の私以外の4名は体操部のO先輩など全員私の3期先輩方である。彼らの同期であるY会長も頻繁に顔を出し、かえっていろいろ気を使って下さる。私も3回目の参加で、優しい先輩方の中で緊張も取れ、すっかり打ち解けて居心地がいいのでした。

 

食後、今日は横山さんの第2夜のヒマラヤ編のお話で、何度も行かれた中国、ネパール、ブータンに広がるヒマラヤの壮大な風景に圧倒される。その後も部屋に戻って大先輩で全日本スキー連盟理事・オリンピックフリースタイル監督であられた平井俊雄さんも参加されて飲み会はお酒が無くなり解散する真夜中まで続き、いろんなお話を聞くことができた。それにしても、皆さん、良く飲み、話、お元気なこと。

Day 3

夜中にも深々と雪が降り続け、昨日からの積雪は山頂部で37cmとなっている。

朝食後、「予定表に従って、9時出発します」と、会長から聞いたのが8時35分「予定表通り荷物の整理をして出発の用意をお願いします」いやいや、無理無理、これから雪に埋まった車も掘り出さなければならないし、大変、不可能、、しかし元体育会系、汗をかきながら車を掘り起こし、それでも9時半にはゲレンデに到着していた。

これだけ降ると、車を掘り出すのは朝からかなりの重労働。

今日のスキーは11時までで、宿に残る人も多く、7名が参加。あまり時間がないので、休みなく滑り今回一番の40cm近い新雪を楽しむ。会長が先頭を行き、止まる気配がない。先輩方によれば「会長はリーダーシップはあるが、後ろを見ないのよね」とのこと。なるほど!

ゴンドラ乗り場にて

右が会長

チェックアウトをするホテルの玄関には大きなごみ袋に入れられて、夥しい数の一升瓶、ワインボトル、ビール缶の残骸が山積みに、、、誰がこんなに飲んだのかと思うが宿泊客は我々のグループだけなのである。

 

東京方面に帰るメンバーを駅に送る前に、いつもの蕎麦屋さん『藪そば』によって昼食。

ここで昼食を取りながら上越タイムスの取材を受ける。女性陣にも年齢を聞いていたが、この集まりでは年齢をごまかすことはできない。

駅で再会を誓って別れ、帰りの道路は新井までは大雪であった。そこからは新潟市まで道路に雪はなく順調な走行。その夜から新潟にもぱらぱらと雪が降り始め、裏の公園もうっすらと雪化粧。皆さん無事に帰られ、楽しかった時間を思い出しておられることでしょう。

3日間のスキーで晴れ、雨、雪と変化にとんだ天候を体験したが、今期は全般に温かく雪は重くいつもより早い3月には雪解けの予感。いつか、地球温暖化でスキーの出来ない時代が来るのかもしれない。それでも雪のある限り、今を楽しみ、スキーを楽しむ。これが我々雪国で育った者たちの心意気であります。今回も、先輩方のお元気な姿に勇気づけられました。歳を取っても先輩方のように若い人達の目標になれるよう私も頑張って滑り続けます。

 

また、お会いいたしましょう。

湯沢にて古狸の騙しあい

アメリカで出会って日本へ帰国した仲間2名と湯沢の石打丸山スキー場で再会して滑ることになった。SさんとS さんとなるので今回はSM さんとSKさん。SMさんとは勿論、伊豆稲取に移り住んだあのSさん、そしてSKさんはいろんな事を器用にこなす湯沢のダジャレおじさんのSさんである。ともに時期を前後させてLAから永住帰国した私がもっとも気の置けない二人である。それぞれ1歳ずつ離れているが、一番年下の私が一番言いたい放題させてもらってきたありがたい二人である。

 

SKさんは36年間のアメリカ滞在ののち帰国してもう11年になり、私が42年の滞米で帰国して6年目、SMさんは45年の滞在で帰国3年目であるから供に同じ頃渡米してLA、マンモスで楽しい良き時代を過ごした仲間である。SKさんと逢うのは1年ぶり、SMさんとは去年の10月以来である。

 

ヨーロッパで覚え、マンモスの Austria Hofでも飲んだホットワインを飲みたいというSMさんのリクエストに事前にライン上でのやり取り。

「SMさんから面倒なリクエストがあり、湯沢でグリューワインを造ります。皆さんの様な田舎者、、いや、田舎に住んでおられる方々には材料の入手が難しいかと思いますので、都会に住む私が材料を持っていきます。シナモン、クローブ、はちみつ、オレンジを調達していきますので、ワインに入れて沸騰しないように中火で温めるとありますので、SKさんに作ってもらいましょう」

 

30日は朝のうち快晴。7時に家を出ると高速までは混雑していて、長岡のあたりで一時霧で視界が200mほどになったがそれ以外は道路状態は悪くない。高速を降りてお刺身を買って9時半ごろにSKさんのマンションに到着。SMさんはすでに着いていて、3人の再会を喜び、荷物整理ののち、ゲレンデに向かう。ここは石打丸山のゲレンデにスキーイン・スキーアウトのロケーション。

       寒い朝、綺麗な雪景色の中を走行する

       ski in ski outでゲレンデへ

昨年、湯沢から赤倉へとスキー遠征をして以来、3人で滑るのは1年ぶりになる。今日は足慣らし。我々がゲレンデに出ると、急に雲が動き、青空を覆い始める。「どういうこと?」日ごろの行いはいいはずだが?

 

ゲレンデの雪はパウダーでなく圧縮され荒れた雪面。今日は簡単なコースがほとんどのハッカ石口でのエリア限定のチケットで足慣らし。実際、このメンバーで滑れたらスキーはどうでもいいかも、と思える。SKさんの後を私とSMさんが追う。「SKさんゆっくり行こうと言って、全然待ってくれないね」と早くも愚痴るSMさん。彼だけこれが今シーズン初めてのスキーであるから無理もない。

ランチはイタリアンでスパゲティーとビール。

ゲレンデは空いているが、最近耳も悪くなり、周りの声が聞き取れず、中国語に聞こえる、、、と思ったら中国語であった。ここは東京からのアクセスが良く外国人も多いが赤倉の様な白人がメインでなく台湾・韓国のアジアからのスキー客が多いよう。午後から雪が降り出し、気温が急に下がりはじめる。

今日は午後2時前に上がり、大浴場へ。外に降る雪を眺めながら湯舟、サウナに入りリラックス。普段はサウナに入らない私だが、二人との貴重な時間が惜しくて、久しぶりにサウナに入る。サウナは後のビールをうまく飲むためのものと心得る。部屋に戻り、まずはビールで乾杯。SKさんが早速グリューワインを作ってくれる。本マグロのお刺身がうまい。SKさんのメインデッシュは良く炒められた玉ねぎが入ったおいしいビーフカレー。

料理上手なSKさんの焼いた陶器であふれる部屋。アメリカでも陶芸はしていたが、帰国して、いつの間にか南魚沼市の陶芸体験教室で教えている器用な人である。 そんなSKさんが初めて作ったグリューワインは旨くて身体が温まる。

      陶器の器はすべてSKさん作

Day 2

朝から青空が見えている。出かけようとするとマスクを顎にぶら下げて、マスクを探すSMさん。先月胎内スキー場に4回目のスキーに行った帰りに塩の湯温泉に寄った時、脱衣所で「入口の受付の処に財布を忘れた方はいませんか?」というアナウンスに、そこにいた4名のうち3名が一斉にロッカーの自分の持ち物を確認する。そこの一人が言う、「最近、忘れ物が多くて、毎日探し物だって」と、ここにもご同輩がと安心する。誰もが年は取りたくなくとも取るこの現実。何をするにも細心の注意が必要で、それでもカバーしきれないもどかしさ。

 

我々がゲレンデに出ると途端に曇り、雪が降り始めた。我々の中に雪男がいると、SMさんが疑われている。ゲレンデに10cmほど積もった軽い雪で気持よく滑られる。

案内役のSKさん、後をついていくが、たまに先行すると「右」「左」と支持を出してくれるが、たまに右左を間違えるので困る。陰では「古狸」と呼んでいる(ハハハ)

ここのスキー場のリフトゲートの開閉ポールは開いたと思ったら直ぐに閉まる。私が片足を残してゲートにトラップされ、係員が来て開けてくれるまでさらし者になる。薄情者の二人がそんな私を見て喜ぶこと、喜ぶこと。混んでいなかったので良かったぁ。

       厳しい降りになってきた

      山頂にて、左が私、右SMさん

      左、最長年のSKじいさん

   雪の中のスキーも風はなく雪はよくて楽しい

ここのスキー場はゲレンデ内に多数の飲食店が立ち並び、そのラインナップは赤倉の比ではない。イタリアン、ラーメン、丼物、うどん、居酒屋さんまでゲレンデ内にあり、地元の食材を使った料理のレベルは高く、何処で食べても美味い。今日はSMさんのリクエストで焼肉とビール。ゲレンデは大雪になってきた。2時にはあがり大浴場へ。

SKさんの作る夕食はだし汁の効いたとり鍋がまた美味しこと。

Day3

最終日は朝から最高の快晴でSKさんにせかされてゲレンデに。ロッカールームから出て、スキーを履いたら1分でリフト乗り場に着いてしまう。早く着き過ぎて「古狸に騙されたか?」と言おうとしたところでリフトが動き出す。今日のゲレンデは昨夜降った雪が綺麗にグルームされている。今日もハッカイ石口から入り、滑り始める。グルームされてるが昨夜の雪が覆ったまだ誰も滑っていない雪面に描くシュプールが気持ちいい。

ゲレンデにあるレストラン街で今日はドイツ料理店でハンバーグとハーフ&ハーフ(黒ビールと普通のビールを半々で混ぜたもの)のピッチャービール。レストランのトイレは階下にあり、疲れた脚には難所である。SMさんがなかなか上がってこない。SKさんが階段でつまずいてヨロけながら前を行く。

     ゲレンデの中腹のレストラン街

        居酒屋げんちゃん

SMさんは今期3日目のスキーでまだ身体が付いてこず、「ちょっと休みましょう」というと喜び、休憩の後「そろそろ出ますか」と言うと残念がる。スキーに来たのか休憩に来たのか分からない体たらくである。

今日は晴れていて眼下に魚沼平野がよく見える。雪質も最高に近い。山頂から魚沼平野に向かって滑り降りる。ランチを食べると早くに最寄ゲレンデに戻りたがるSMさんにまだ早い時間ではあるがハッカ石口に戻り、SKさんに滑りを見てもらう。先にSMさんは上がり、SKさんと二人でしばらく滑り続ける。

      米どころ魚沼平野と八海山を背景に

      ゲレンデより谷川岳、湯沢駅方面を望む

1時半には上がって買い出しに出てビールと刺身を調達してくる。

夕方LAにいる友人KYさんとラインで会話。彼もまたあと5年ほどで帰国する予定だと言う。我々の年代で子供のいない自由人は退職してアメリカから帰国する人が多い。老後はやはり日本が懐かしくなるのだろう。

 

陶器、食器棚、テーブル、アート作品、何でも玄人肌で作ってしまう器用人のSKさん。アメリカで住んでいた家は売りに出す前に自分でユーチューブを見ながら全面リフォームしてしまった。そんなSKさんが作る今日の夕食のメインはマーボ豆腐。それもSKさんのマーボ豆腐は材料の香料を横浜中華街で買ってきて、インスタントでない素材から作った絶品。私もなんでも料理は作るが、いかに手を抜いて短時間で作って早く飲み始めるかという料理。SKさんは手を抜くことなくプロの料理人の様な絶品の料理を作る。

      登り窯で焼いた陶器の数々

      家具屋さんに売ってそうな自作の食器棚

      丈夫なテーブルまで自作品

    本物のシューズを使ったアート作品

        絶品マーボ豆腐
ダジャレのSKさんも、最近はSMさんに先読みをされてしまう。ここは気づかないふりをして、聞いたことのあるダジャレでも感心してあげる優しさが必要か。

就寝まえにもう一度大浴場へ、SKさんと湯舟でスキー談話でのぼせる。今回の楽しいスキーツアーも明日で終わる。

Day 4

朝、SMさんの荷物を送るためヤマト運輸へ。送り状を早速書き損じるSMさんに、棚に置いてある20枚ほどの送り状に「それで足るかね?」と茶化す二人。その後、SMさんを駅に送り、SKさんとおそばを食べて解散。二人に、「楽しかったです。数々の暴言をお許しください」と、メールを送っておく。

こうして我々は皆、古狸になっていくのであろうが、マンモスで過ごした日々の様な楽しい時間であった。まだまだスキーを続けられますよう。

赤倉スキー場にて + エピソード30 アメリカのマイナンバー制度

妙高赤倉スキー場へ17日から2泊3日のスキー旅行にきている。例年の地元高田の高校同級生OBのスキー仲間が集合、一日目は泊り4名、2日目が泊り5名、日中は日帰り組が1~2名加わる。

朝8時に新潟市を出発して、10時半に元デモンストレーター金子プロの経営する定宿金甚へ着くとちょうど黒部からH君夫妻が到着。チェックインを済ませて旅行割引キャンペーンの2泊分4000円を携帯のアプリを入れて電子マネーで受け取る。これがなかなか分かりずらくて時間を食った。

 

私は金甚で手配してくれた三日分のリフト券を受けとりゲレンデへ。今期は雪が少なく、駐車場の周りの雪の壁も例年と比べずいぶん低い。それでも長野県のスキー場よりはいいそうで雪がなくてゲレンデにカーペットのように人工雪を敷いてかろうじて維持をしているスキー場もあるという。スキーヤーも少なくゴンドラは経費削減のため、週末しか動いていない。オーストラリアからのスキー客が少し戻っているが、コロナ前と比べると週日でもあり、ゲレンデはまだまだガラガラの状態である。

リフトで上に上がり、滑り始める。K君I君と合流して何本か滑って昼食。ゲレンデのレストランは「えーとる」が改築中で開いておらず、「めいぷる」のみの営業。それでも客が少ないのでそんなに不便は感じなかった。食事中はマスクなしであるが大声を避け会話の時、時たまマスクをする程度。1時15分から金子プロのレッスン。3時まで滑って金甚へ。

金子さんのレッスン

金甚さんでは幸い従業員もコロナに罹った人はいないという。しかし、そろそろ知り合いにも感染した人が出ている。ほとんどが孫などからの家庭内感染。幸い皆軽い症状で回復しているが、コロ感染者で亡くなっている人の93%は70代以上の基礎疾患ありの方々なので重症化が少なくなったと言われても心臓に大動脈肥大の基礎疾患を持つ私は気を付るに越したことはない。

今日の宿泊客はH夫妻とK君と私、私らの他には昼間一緒にレッスンを受けた神戸から金子プロの一期生徒であったという3人のご婦人方が宿泊。明日帰るという彼女らは神戸まで運転を代わりながら片道7時間のドライブだと言う。まずは夕食前に温泉に浸かる。金甚の温泉はかけ流しで、加水、加熱なしの少し暖かめの癒しの温泉で気持よい。

部屋は今回は基本個室を用意してもらっていて、食後、私の部屋で窓を開けて、空気清浄機をつけて軽い飲み会。

 

二日目は地元からいつものI君と今回初めて参加のK君。富山の黒部からは同窓生ではないがH君の友人のM医師がゲスト参加。10時からそろって金子プロのレッスンを受ける。今回のテーマはターンに入るきっかけとして山足を少し先行させその内側にいかに早く乗って沈み込んでテール加重でスキーを走らせていくか。午前と午後のレッスンでその過程をやって見せ、説明しながら繰り返してくれる金子さんの教え方は分かりやすい。分かっているけど難しい。「皆さんのやろうとしていることは正しいです」と言われながらだんだんと良くなっていく。

 

今回受けた旅行割引キャンペーンのポイントを使える場所は少なく、今日はポイントを使って贅沢にゲレンデの中にある赤倉観光ホテルでのコースランチ。初めて入ったアカカンは雰囲気のいい高級感がある内装。カフェテリアは混んでいたが我々の入ったメインダイニングはガラガラ。天候が悪くせっかくの風景をレストランの大窓から見れなかったのが残念。

朝のうち日が差していたが、午後からはどんどん天候が崩れ、視界が悪くなってくる。3時までレッスンを受け濃霧の中を下りて、ホテルに戻る。

19日は夜半に少し降った雪が止み、朝から青空。荷物の整理をしてゲレンデに出るころには今年初めて見る雲のない青空。5cmほどの積雪は十分ではないが最高のスキー日和。宿泊した5名と日帰りのI君で10時から1時間の金子さんのレッスンを受ける。シニアでもスキーは上達し続ける不思議なスポーツ。やっと皆の滑りが安定してくる。ランチを食べて、1時半に解散して、高田の実家に寄り母の顔を見てから新潟に帰宅する。


コロナ禍でのスキーに関しては、屋外スポーツであるスキーでは罹ることはない。今回は仲間に内科医のM先生もいて、基本は個室を用意してもらった。おそらく部屋割りをなるべく少人数にして、同室者に感染者がいなければこまめな手洗いと換気で感染をある程度は制御出来るのかと思う。一番の予防は感染の可能性のある方は事前にドラッグストアで買える簡単検査をして、陽性であれば参加しないことが大切かと思う。

 

今週末から来週にかけ2度寒波が来ると予想されているが、スキーヤーを喜ばすほどの積雪は期待できるのであろうか。月末の30日からは湯沢に行く予定を立てているが、今期の北日本以外のスキー場ではスキーシーズンは早くに終了するのではないかと言われている。短いスキーシーズンを予測して、2月はスキーの予定がいっぱいである。スキー場も来月は少しは混んでくるであろう。

 

帰りの車中で新潟市の古町にイノシシが出て女性が軽傷というニュース。古町は昔からの新潟の繁華街であり、古町13番地は外れではあるが家からも近い。イノシシの足で道草を食わずに猪突猛進したら5分で私の処や、古町の中心街来れるだろう。こんなところにイノシシ、今の世の中、今までの当たり前が通用しない事が多い。コロナがそんなに長く続くはずがない。戦争になるはずがない。

 

エピソード 30

日本のマイナンバーカードに当たるアメリカのソーシャルセキュリティーカードを私が収得したのはアメリカに暮らしてすぐであった。アメリカに住むようになったら学生でも銀行の小切手口座が必要になり、口座を開きに銀行に行ったらソーシャルセキュリティーナンバーを取ってくるようにと言われて取りに行ったのである。

 

そのナンバーは日本のような各市町村の扱いではなく、連邦政府が発行する全国的な公的証明書類でありナンバーは一生変わることはない。このナンバーは個人の収入を記録する身分証明番号であり、合法的な金融活動に参加するには不可欠で銀行口座、投資、就労、税金申告・納税、年金など政府相手の様々な場面で要求される。日本に帰国してすぐに故郷上越市でマイナンバーカードを収得した私は、新潟市に正式に転入したとき、改めて新潟市で新しいマイナンバーを申請し収得しなければならないと言われて、これでちゃんと国として管理できるのであろうかと驚いた。

 

さらに最近、日本のマイナンバーカードを入れるナンバー部分を隠す機能のあるカードカバーが、ナンバーを知られてもすぐに悪用できないので、カバーの提供を中止するとニュースになった。こんなことをしているから国民の半分は個人情報が洩れて悪用されるのではないかと疑心暗鬼になり、促進奨励金2万円をあげると言われてもマイナンバーカードを申請しない人が多いのだと思う。もっと早くにマイナンバーカードが悪用されることはありません、カードをもって国民健康保険、銀行口座と連動させないと健康保険も、銀行口座も使えませんとしたら、こうまで税金を無駄に使って申請を促す必要はなかったと思う。

 

もう一つアメリカでは金融関係の会社が情報を共有しているクレジットスコアという日本では聞かないスコアがある。満点が850点で信頼度を数字化したものである。日本でもクレジットカードを申し込んだが理由の説明のないまま拒否されたということがあるから同じような信頼度の情報を金融機関が共有していると思うのだが、アメリカでは自分のクレジットスコアを知りたいと思えば簡単に調べられる。

https://manekai.ameba.jp/creditcard/21495100014869

銀行口座を持てるようになると、クレジットカードが持てる。自己破産をした人でなければクレジットカードの発行を拒否されることはほとんどない。何せ私の場合、学生でも限度額300ドルの最初のクレジットカードがつくれたのである。その後、カードを使っては期限内に返済を繰り返し、就業して安定した収入を得て、車のローンを完済し、家のローンを滞ることなく払い続けて完済すると、それが信頼度となりクレジットスコアは上がっていく。長い期間の家のローンを滞ることなく払い切ると、その人のもとにはカード会社の方からカードを持ってくれとセールスが殺到することになる。私は300ドルからの長い道のりであったが、こうしてアメリカの社会経済は回っているのである。

 

ということで、日本の一連のマイナンバーカード騒動はアメリカで暮らしたことのある人にとっては日本政府の不甲斐なさであり、反対する人は後ろめたい人か過剰反応する人と思ってしまう。マイナンバーはアメリカの制度を参考にしたと聞いたが、視察に行った国会議員は何を学んで帰ったのか?会話も不自由な国会議員が役に立たない情報を得るため税金を使って観光的視察に行くならアメリカに暮らしたことのある私のような国民に意見を求めた方がはるかに安くて役に立つ情報を得ることができるはずである。私ならボランテアで協力します。国会議員の視察よりはるかにコストパフォーマンスが良いと思うのですが。

 

今週のミーちゃん

女の子らしい首輪にチェンジ