Merry Christmas +エピソード13

12月も後半となり、後10日ほどで新年を迎えます。2021年はコロナ禍で世界中が大変な一年でした。オリンピックが開催されましたが、いまいち盛り上がりに欠けたまま終わり、すっかり過去の出来事となっています。そして政治的にも世界では民主主義的価値が大きく損なわれ、一部の国では独裁者が国民を押さえつけ洗脳するような覇権的かつ強権的統治が強まっている様に思います。

2022年が少しでも明るい年になるようと想いを込めて、年賀状に代わり、このブログ上で皆様に新年の挨拶に代えさせていただきます。

 

いつもの3人のメンバーで寺泊の住吉屋に一泊の忘年会に行く。少し寒い天候で日本海は曇り空の下で波高し。新潟県では新発田と長岡の小学校でクラスターが発生している。新潟市では感染者は出ていなかったが15日に一人。今日の宿は満室だそうで、見たところ、皆県内からの客のようで、まだコロナも安心かと思う。

宿は寺泊漁港が目の前というロケーションにあり、寺泊漁協の「地元海鮮のセリ権」を持っているため、新鮮素材の提供が出来る宿で私はこれで3度目の宿泊になる。今回は新潟県民割引で半額の6100円になり更に2000円の買い物に使えるクーポンが貰える。そしてチェックインの際ライン登録すると一人一杯のお酒のサービスがあり、夕食時に熱燗3本を頂く。

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何度も行っている寺泊なので今回は観光も無く、ひたすらお酒と温泉と料理を楽しむ忘年会。

 

温泉に入って夕食の宴に。カニが一パイずつと海鮮を中心にしたテーブルいっぱいの料理の数々。これで実質4100円は申し訳ないほど安い値段。宿内でもマスクはマスト。食事、温泉に部屋を出る時、つい忘れて出て、取りに戻るのは皆さん同じですね。

帰りがけに寺泊まりの魚市場で、宿で頂いた2000円分のクーポンを使って大きなズワイガニを買って帰る。

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新潟市にも、冬将軍が訪れ、10cmの積雪があった日、雪を踏みつけ散歩にいく。スキーのシーズンももうすぐ。

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エピソード 13

ロックが好きだったので、エルエーで1970年代中頃から80年代の有名ミュージシャンのコンサートにはほとんど行っていた。ベバリーヒルスに隣接したヤマトレストランでは客としてくる大勢の映画スターのプライベートの姿を見る機会があったが、その他、アメリカで偶然遭遇した素顔のスター達は、確信の持てるケースから、確信の持てない遭遇まで、こんなことがあった。

 

70年代後半、明け方のサンタモニカフリーウエーを走っていたら、隣の車線をロールスロイスが追い越していった。見るとモハメット・アリ(カシアス・クレイ)が運転していた。これは見間違うはずの無い顔と、そのころすでにパンチドランカーの症状が出ていると言われていたので、何か所かぶつかってへこんだ痕のある高級車ロールスロイスの組み合わせは伝説のボクサー、モハメット・アリ以外考えられないので100%本人であったと思っている。

また同じころ、ロス郊外のビックベアからの帰り道、キャンピングカーとすれ違ったが、その車を運転していた人が西部劇の大スター、ジョンウェインであったと思う。まさに『駅馬車』を操る映画の中の、ジョンウエンと同じ顔をしてカーボーイハットをかぶっていたので、こちらは本物度50%の確率か。 

 

ジェフベックをウエストハリウッドのマーケットで観たこともあった。これはロック好きの友人が確認したので90%。

 

日本人のオーナーシェフが経営するフレンチレストラ、シェフ・サトウで隣の席にショー・小杉一家が座っていた。私より数年先に私と同じように片道航空券で単身渡米して、スタントマンからスタートして、その頃既に忍者俳優としてブレイクして、いくつかの映画で主演して100万ドルスターの仲間入りを果して、アメリカン・ドリームを実現した俳優であることを知っていたので、食後、「ショー・コスギさんですよね。映画を見て同じアメリカで暮らす日本人として、これからも活躍されますよう応援しております」と、挨拶をすると、武道家らしく丁寧に対応して下さった。小学生くらいであったケイン・コスギ、シェイン・コスギの兄弟は椅子から立ち上がって挨拶をしてくれた。

ケイン・コスギはその後、日本で活躍する事になる。

 

先日亡くなった神田沙也加さんは、今から20年前、中学1年生から2年生の時、アメリカの国際学園と言う全日制の日本学校で約一年間、うちの家内の教え子だった。いろんな事情で8回も転校を繰り返していたと言う沙也加ちゃんは、その頃、松田聖子さんの2番目の結婚相手、UCLAに留学研修をしていた歯科医の波多野さんと一緒に暮らし、時たま母親の聖子さんが日本から訪れ、彼女も頻繁に日本に帰っていたと言う。普通の大人しい子だったというが、その夏休みに、アメリカで俳優としてのデビューをしていた。

https://bunshun.jp/articles/-/50866?page=1

冥福を祈り、合掌

今週のミーちゃん

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ミーちゃんが我が家の一員になって1年、1歳2か月の人間で言えば成人になりましたが相変わらずの甘えん坊です。

ワインを楽しむ+ エピソード12

今日9日は私の故郷、上越にある「岩の原ワインを楽しむ会」の開かれる日であった。コロナの状況に依っては中止されるイベントであったが、最近の状況を鑑み、無事に開催された。

同級生のS君が世話役を務めている事もあり、帰国以来毎年参加している。ホテルでのフルコースのディナーとワイン。最近はドレスアップして出かける事も少ないので嬉しい催しであった。

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エピソード 12

今年の12月8日は80年目の開戦記念日であった。アメリカでは12月7日がパールハーバー・ディーである。8日にNHKで真珠湾攻撃のドキュメントをやっていた。あの日、5隻の小型潜水艦が自爆した。それぞれに2名の軍人が乗っており、その時に亡くなった9名は最初の戦死者として9軍神と崇められた。そして、一人の若者が生き残り、最初の捕虜となったが、居なかった人として歴史上から消された。

 

「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を受けていた藤巻さんは「日本には帰れない、殺してくれ」と、望んだが、その時、名護という僧侶に出会った。この方は、真珠湾攻撃の30年前、日露戦争でロシアの捕虜になり、3年後に無事に日本に帰るとすぐに出家してハワイへ移住した方であった。「生かされているのは、生きるべき理由があるからだ。命を粗末にしてはならない」と諭された藤巻さんは段々と考えが変わって行き、ロスに移送されてからは同じ境遇の方たちを救う事に尽力し、アメリカで捕虜となったほとんどの人達が藤巻さんにお世話になり、救われたと、言う存在になった。戦後、日本に帰国して、トヨタ自動車に入り、英語力を生かし、アメリカにクルマを売り込む仕事をされ、その後ブラジルトヨタの社長を務め、1999年になくなられたそうだ。

 

さて、アメリカのハワイ、ロスなど日系人の多い処には西本願寺、東本願寺の別院などがあり、現地の人の心の支えとなって来た歴史がある。そこの僧侶は日本から派遣されていた。

学生の時アルバイトをしていたヤマト・レストランには多くの学生が働いていた。その中にハワイのお寺からUCLAに勉強に来ていた若い僧侶がいた。名前を忘れてしまったが、ヤマトでフロントをしていて、何度か私のハリウッドのアパートでマージャンをした仲であった。マージャンが強く、我々はそんな僧侶らしからぬ彼を嫌味と親しみを込めて「生臭坊主」と呼んでいたが、人間的にはとても魅力的な人物であった。元気ならば今はハワイか日本のお寺で僧侶をしているはずであるが、生臭坊主さんも私と同じ場面を思い出してどこかでほくそ笑んでいる事だろう。

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ミーちゃん、被り覆面、気に入らないご様子

web site:     スキー三昧 イン カリフォルニアスキー三昧 (skizanmai.com)

富士山ろくで子犬鳴く+エピソード 11

日本では10月から急速にコロナ感染者数がへり、世界的に見ても専門家も納得できる説明ができ出来ないと言う状況であるが、感染者減少というその事実だけを見れば、幸運であり、嬉しい事である。

しかし、南アフリカで新型異変株「オミクロン」が確認され、「懸念される変異株」としてデルタ株などに比べ再感染力が強く、世界中で感染増加の警戒すべき状況が始まっている。いくら水際対策を強化しても、デルタ株同様に、日本に入ってくるのは時間の問題で、新しい対策、ワクチンが開発されるまでの時間稼ぎだと言う。

 

それでも12月初め現在、まだ日本のコロナ感染状況は少なく、今までになく安全な状況に思える。新たな変異株が入ってきたら次のチャンスは何時になるか判らない。出かけるなら今と久しぶりの県外、静岡の友人のところへの旅行を決めた。

 

静岡県三島の駅に降りると、45年前の渡米早々に出会い、長きに渡り途絶えることなく一緒に過ごし、私より3年遅れで昨年アメリカから永住帰国したSさん、Sさんのお兄さん、そしてYさんと懐かしい顔ぶれが待っていてくれた。Sさんの幼馴染Yさんはアメリカに何度も来ていたし、お兄さんも6年前の退職後、アメリカに長期滞在したことがあったので、いずれも気心の知れた仲。

 

静岡県は中央に県庁所在地静岡市、その西には浜松、この2市が大きく、県の東部に位置する三島は、思ったより大きな街であるが、隣の沼津市はさらに大きく、それでも西部の浜松市には及ばず。県央の静岡市を挟んで東西の静岡県人は互いに腹に一物をもって接していると聞いたことがあるが、所詮は子犬の遠吠え。

帰宅後、調べたら静岡の県民性を表す面白い記述があった。

『東西に長い静岡県はもともと、伊豆、駿河、遠江(遠州)の3つの国から成った県で、三者三様の県民性がある。また、日本の東西の分岐点でもあるので、電気の周波数から、食文化まで静岡県内でもきっぱりと分かれるのが特徴。西日本、東日本どちらの性質も受け入れられる柔軟性を持ち合わせている。 また、いざ食えなくなったら、中部の駿河は優柔不断で、とりあえず人に乞うてしのぐ「駿河の物乞い」、西部の遠江は気性が荒く経済感覚がシビアなので「遠州泥棒」、東部の伊豆は何もできない「伊豆の餓死」と、性格を揶揄された』

念のため、三島は東部である。

 

宿の窓の目の前に日本の象徴富士山が姿を現す。昔からいろんな思いでこの山を見てきた人が居ると思うと感無量。その昔、富士山を見ながら歩いて東海道を行き来した人。戦時中、この祖国を守るため、富士山に見送られ、戦いに行った人。

三島は富士山からの地下水が溢れる水の郷。街中には多くの湧き水と、清流が流れ、紅葉の残る川沿いの散歩コースが良かった。

 

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珍しいカワセミ

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三島は水鳥の宝庫でもある

御殿場の宿の外にはクリスマスのライティングがなされ、食べ放題、飲み放題のプランで、クラフトビールが6種類もあり自分で注ぎ放題。Yさんが作ったと言う9杯の記録を私が破った処までは数えていたが、その後は判らず。

とりわけ長年の友であるSさんとは話が尽きない、私の人生で一番一緒にお酒を飲んだ人であり、40数年の長きにわたる、スキー、旅行、酒の上での失敗談、懐かしく、楽しい時間がアッと言うまに過ぎる。まだまだ門外不出の話が有るのだが、それはまた次の機会に。

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すっかりお世話になった楽しい数日間でした。有難うございました。コロナが収まったら、また富士山を見に行きます。

 

エピソード 11

冒険をする若者にも何度もあった。若い時に放浪の旅をした時にはヨーロッパでアフリカのコンゴ川をゴムボートで下りに行くという人に会った、その結果をアメリカであった旅人に「途中でリタイヤ」と聞いた。冒険をするには大胆さが必要だが、私は注意深く進む性格なので、初めて海外へ行った時から危険を伴う本物の冒険は出来なかった。中近東でも比較的治安が良いと言われたメインルートから外れなかったし安全意識を常に心掛けた。

インドからネパールに向かう時にその頃鎖国をしていたブータンへのかなり具体的な密入国の話が有った。もし、行っていれば、ブータンへ入った数少ない最初の日本人に成れたはずである。

 

私のいた会社の施設にコンテナの混載で着いた自転車を取りに来たこれから自転車で世界一周をすると言う若者がいた。彼の個人荷物を受け取るための手続きに私の名前を誰かかから聞いたと連絡を受けたので、いろいろと面倒をみてあげ、昼ご飯をご馳走してあげた。食事をしながら私がかってヨーロッパで経験した話や、放浪の旅の心構えのような事を話してあげた。

 

2年後、オーストラリアのバースからはがきが来た。「最終目的地であったオーストラリアのバースにゴールインいたしました。途中で盗難や体調を崩したり、いろいろありましたが、無事にゴールインできたのは旅の初めに小堺さんにお会いできてお話を伺えたことが大きな励みになりました。これから愛車を日本へ送り、帰国致します。有難うございました」と、あった。私は彼に「旅でお世話になった人には恩返しができないが、その自分が受けた恩は、何時かで他の人に返してあげて下さい。それを心掛けたら、必ず楽しい旅が出来るでしょう」と言っていた。

 

ハリウッドサインのあるグリフィススパークで日本人の旅行者に出会った事がある。 夏のグリフィスパーク天文台は夜景のきれいな観光スポットであるが、昼間は連絡のバスがあるが夜になると車で訪れる人は多いが帰りの便がなくなる。彼は終便を逃して困っている様子。何故かいつもそいう人を私は見つけてしまう。夜間に山の下のバス停まで歩いて、そこから便数の少ないバスを待って夜中に帰るのは危険である。困っている彼に話しかけた私は彼をハリウッドの宿まで送ってあげた。

一日一善は母の教え、せめて一週一善くらいはやってきたつもりである。先日、母は少ない年金からもう何年も「国境のない医師団」へ寄付を続けていると知った。100歳になる母の前では、私はまだまだ未熟な子犬であり、ひよっこである。

 

今週のミーちゃん、我が家に来て1年になりました。

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箱や袋があれば、入りたがります

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村上瀬波温泉+エピソード10

我々が温泉に行く予定をたてるとコロナの感染が減ってくれる。今回は日本だけ奇跡的に激減している。今月に入り新潟県では0の日が続き、たまに感染者がでても2~3人。東京も30人以下の日々。この機会に村上市の瀬波温泉へいつもの3人で行く。村上市はO君がかって支店長をしていたことのある地で、予定を立てる間に村上市の旧友が是非一緒に夕飯をという事になったと連絡があった。大観荘に夕飯だけの予約を取ろうとしたら、県と市から援助が出るので日帰りより泊った方が安いと言うので、村上の3名も泊る事になった。 

 

お酒大好きのO君の友達は只ものではなかった、だって宿でこれから夕食がでるのに、刺身の盛り合わせを持って来た人は初めてみた。「地元の漁港から買って来たから間違いなくホテルの夕食に出る刺身より美味しいですよ」という、大瀧はいつもの様にフロントで「お酒の、持ち込みをしたいんですが?」と聞いたら「1本くらならいいですよ」と持込み料を取らないという。前回もそうだったが、本当に新潟の人は商売っ気が無い。しかし実際は一本どころか4本の日本酒が持ち込まれていた「一本づづテーブルに置いてたら判らないよ」とのこと。村上の皆さんは全員市役所で働いていた人たちと聞いたが、ええのかい?彼らの 部屋は行き来しやすい隣の部屋 。夕食は6時からで、我々6人には食事は個室を用意してくれた。

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これはまだ夕食前の宴

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見た事も聞いた事も無い持ち込みの刺身盛り合わせ

そんなわけで、温泉に入って4時半ごろから彼らの部屋で飲み始める。村上は昔からの鮭の産地。村上藩はここの三面川で世界で初めて鮭の人口ふ化に成功した。鮭は大きくなって生まれた川に戻ってくるが、実は本当に美味しいのは川に上がって体力を使う前の海で獲った鮭だそうで、持って来てくれたのはそんな鮭から手造りした鮭の酒びたしなど。Sさんは地元の鮭道場で人達に塩引き鮭の作り方の講師をしているそうで素人ではない。彼の作ったお酒に浸して食べる乾燥鮭「鮭の酒びたし」は地元のお店で売っている以上の高級品で絶品でした。

6時から宿の夕食の本番なのに、すでに前宴会でかなり出来あがっている。

村上はいろんな産物が採れる、宿の食事は豊富な地元の食材づくし。楽しい会話と美味しい料理を頂きました。これで県民対象の割引を使って、更に2000円分のクーポンを貰うと5000円そこそこで2食付き一泊。

ここは海に沈む夕日が売り物の海辺の宿であるが生憎の雨空であった。夕食後も部屋に戻って宴会の第三波は続いた。

 

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目の前に粟島が微かにみえる

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こちらが本番の酒宴の席

翌日、村上市内の老舗「千年鮭きっかわ」へ行く。お店であり、観光地でもあるが、O君と店内の吉永小百合さんの大きなポスターの写真を撮っていたら、吉永さんと出会った風にという我々の企てに気づいた客のおばさんに大笑いされてしまった。

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鮭の博物館であるイヨボヤ会館では鮭の獲れる三面川の底に行く通路があり、ガラス越しに実際に遡上する鮭の姿を見ることが出来る。

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小雨の中を村上市街地東端にそびえる臥牛山(標高135メートル)の頂に築城され、歴代の村上藩主の居城であった村上城址に上る。ここからは海まで続く市内が一望できる。

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エピソード10

ユーラシア放浪の旅から戻り、大学を出ても、就職しないでまた海外へ出た私は、世間的には一般的なレールから外れたドロップアウトの人生のスタートであった。2度目の渡航はもともと夢を追ってのチャレンジであったので、気持ち的には何時か社会に戻ると言う決意と余裕があったように思う。その後、それはアメリカで永住権を取り正式に働くことが出来るようになれば生活の基盤を築けると言う確信のようなものとなった。実際その頃はJapan as #1と言われた日本の国力が伸びていた時代で、アメリカでは日本人が重宝される需要があり、アメリカン サクセスのようなチャンスがいっぱい転がっていた時代であった様に思う。

結局29歳までのアメリカでの生活は旅行と学生とアメリカ永住権を取るための日本レストランでの仕事で遠回りの人生を過ごしていたが、永住権を取ってからが、本当の社会人としての出発であり、ドロップアウトからいっきにカムバックして行くことになる。

最初は日系の専門商社で1年ほど勤め、もっと良い仕事を探していた時に、そのころ先に通関業務の会社で働いていた親友Sさんが、「アメリカの物流会社が日本人を探しているよ」という情報をくれて、面接を受けて採用となった。そこが私が36年間働く場所となったロサンジェルス・ロングビーチ港でも物流の大手であったCalifornia Cartage Companyであった。(現 NFI CalCartage) 

アメリカの会社であったが、その時、私を面接して採用してくれた直接のボスとなり、お世話になったのが日本人のCさん。Cさんは日本で学生運動で捕まって裁判で「父親のアメリカ赴任に付いていけば無罪釈放」という条件を出され、船会社の駐在員であった父親のもとに送られアメリカに来たと言う経歴の持ち主であり、凄く仕事の出来る人であった。私はCさんに教えられ、鍛えられ、その後の物流業界でのキャリアをスタートさせた。

 

これは私にとってはその後のチャンスを与えられた幸運なスタートであった。しかし、アメリカでは職を得た後、自分が会社で必要とされるポジションに付いて初めて安定した職に就いたと認められるのであり、それまでが大変なのです。(だから小室圭さんはこれからが真価を問われる場であり評価されるのはこれからだと私は言い続けているのです)私は幸運にも、80年代から90年代は様々な日本の会社がアメリカに進出してきた時期で、そのアメリカサイドの物流にかかわることができた。Cさんは私が入社して6年くらいで退社され、以降は社長が私の直接の上司として退職まで仕事を続ける事が出来た。

 

人との出会いに恵まれて、いろんな人に助けられた私の人生は、若い時に旅に出た時から一期一会の人との出会いを大切にしてきたおかげかと思う。

 

今週のミーちゃん

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帰郷+エピソード9

コロナ禍で、なかなか帰郷出来ないでいる人が多い。とりわけお年寄りのいる家庭はそうだと思う。10月に入り、コロナの感染は劇的に減っている。新しい異変株ミューのニュースもあるし、第六波が来ることはワクチン接種の進んだ他国を見ても間違いない事だと言う。人が動けばコロナも動くと言う原則は変わらない。

10月下旬、母の100歳の祝いに上越の実家に帰郷した。千葉から合流する弟と共に安心の為、事前にPCR検査を受けた。今、PCR検査はドラッグストアで検査キットを購入して、唾液を採取して送れば誰でも出来る。その費用は1万4千円ほど。送って3~4日で結果がe-メールで送られて来る。PCR検査は自分の為でもあるが、ワクチン接種と同様に自分の周りの大切な人たちを守る為でもある。

二人とも結果は低リスク。唾液内のウィルス数が少な過ぎて結果が異なる可能性が無い事も無いので、そういう表現なのだそうである。

実家に帰る前に高田の寺町にある称念寺に寄り、小学校5年、6年の時の恩師に挨拶に伺った。2年ほど前に帰国の報告を電話でして以来で実際にお会いするのは60年ぶりとずいぶんのご無沙汰。先生は退職後、今はお寺の住職をされているが、もともとは私の父親の付属での教え子で私は父の教え子の教え子と言うことになる。放課後に一緒に遊んでくれた思い出深い先生。称念寺は1327年創建の由緒ある古寺で先生は48代目の住職でお寺にある木造彫刻は運慶の流れをくむ県内唯一の貴重なもので国の重要文化財に指定されていると今回初めて知った。

久しぶりに母と兄夫婦と出前のお寿司を食べながらゆっくり話すことが出来た。

そのまま、私と弟は母の生まれ故郷である松之山温泉で一泊。松之山温泉は有馬、草津温泉とならび、薬用効果のある日本三大薬湯と言われ、古くからの温泉地である。湯元の温泉は源泉90度と言う高温で、塩分のある薄茶色の湯は何となく効きそうで体に染み入る。

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翌日、菩提寺でお墓参りをして、もう一度母に会って新潟市に戻る。母はボケる事も無く、まだまだ元気そうだが、冬になれば体調を崩す事もあるだろう。元気なうちに、また会える機会を作りたい。

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翌朝は弟と2時間ほどサイクリング。弟は午後の新幹線で帰って行った。

 

エピソード 9

渡米して4年くらいはハリウッド界隈に住んでいた。エピソード1にも出たEは、一時期ルームメートであったが、彼は頻繁に日本に帰って音楽業界との関係を保っていた。

そのEが日本に一時帰国していた時、突然空港からその時は知らなかったが、後にYMO(イエローマジックオーケストラ)のマネージャになるOさんから電話があり、「Eから連絡を受けていると思うけど、空港に着いたので迎えに来てもらえる?」と言う、「え~!何も聞いてないけど、ともかく迎えに行きます」空港に行くと既に何枚かアルバムを出していると言うミュージシャンのM君と一緒。

二人はハリウッドの私のアパートに数日いて帰国。しばらくして私もYMOの存在を知るが、版権の一部を持っていたOさんもあの後すぐに羽振りが良くなり、ロールスロイルに乗っていたと聞いた。M君はその後アメリカに移住して今でも付き合いがある。

 

日本で顔の広いEからの紹介で同じような事が新宿ライブハウス・ロフトの社長Hさんのケースも。やはりEからの紹介で空港に向かいに行き、数日私のアパートに滞在して、連日ハリウッド界隈を視察(?)して回り、二人とも帰国の前日飲み過ぎてやっとの思いで空港に送り、チェックイン。その頃は見送り人も奥の待合室迄ついていくことが出来た。待合室の目の前にはジャンボジェットがとまっている。安心したのかそのまま二人とも爆睡。目が覚めると目の前に停まっていたはずの飛行機がすでに離陸して居なくなっている。飛行機にチェクインはしたけど、寝過ごして乗り遅れると言う大失態。翌日の便に変更してもらい、無事に(?)日本へ送り出せた。

 

その他にも、Eのコネクションで、布施明、矢野顕子、リトルフィート、フランク・ザッパ、喜多朗などに会わせてもらった。40年以上前のことでもう時効だが、矢野顕子のデビューアルバム『JAPANESE GIRL(日本人形)』のレコーディングは毎日Eとハリウッドのスタジオに関係者のような顔をして通い、リトルフィートとのレコーディング風景をまじかで見せてもらい、打ち上げの宴にも参加させてもらった。後に矢野顕子とリトル東京で出会い、「何をやっていらしゃる方なのですか」と聞かれ、「実は、音楽関係の者ではなく、現地の関係者の友人です」と正直に話したところ、私を現地の大物かと思っていたという彼女は「そう、だったの~」と笑い飛ばしてくれた。

そういえば同じころ、石田純一と結婚する前の松山千明さんをハリウッドからディズニーランドまで車で送ったことがあった。誰に頼まれたのだったか?

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ミーちゃんはお気に入りのぬいぐるみを毎日方々に持って回るが、なかなか咥えて移動する姿をとれなかったが、やっとガラス越しの撮影に成功。




 

コロナ感染減少+エピソード 8

この処、全国的にコロナ感染者数が減っている。今日の新潟市内の感染者は0。今のうちにいつものO君、Fさんと漁港のある寺泊へ一泊の旅行に行くことに。前回の月岡温泉といい、我々は上手く感染の減った処で動いている。これはたまたまではなく、感染状況を見ながら寸前に最終決定をしているからであろう。

感染が減少したとは言い、感染源不明のケースはあるし、海外でも感染は相変わらず増えているので状況は不安定で、終息にはまだまだ遠い状態である。

 

寺泊の海辺にある、『カニの宿きんぱち』何時も、コストパフォーマンスの高いプランを探してきてくれるO君が見つけてきた格安のプラン。二食付きで一室3人、県民割引で一人5370円、さらに2000円の地域クーポンをくれるので、実質3370円である。2時半にFさんが迎えに来てくれる。天候は良くないが、今回は自然を見に行くわけでないので、関係なし。O君を西区で拾って、海岸線を1時間ほど南西へ走ると寺泊に着く、ここは新潟県でも有名な漁港で海産物が安くて美味い。

 

寺泊水族博物館の隣、カニの宿きんぱちにチェクイン。コロナ禍でも宿は今日も満室のよう。お風呂に入ってから持参のビールで夕飯前に乾杯。お酒を飲まない(飲めない?)Fさんはウーロン茶。お酒を飲まない人もいるのに我々のグループのお酒の消費量が多いのはなぜか?

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食事は大部屋でのグループごとのテーブル。夕食の海鮮は美味い。宿の一番の売りであるカニは新鮮でりっぱな本ズワイ蟹が1尾ずつ付いた。美味しい料理にお酒が進むが、それにしても、最近歳のせいかすっかり酔い易くなっている私。

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早朝目が覚めたらFさんが居ない、4階にある展望風呂は朝6時半からのオープン。少しフライングして、もうお風呂に行っているようなので、我々も朝風呂に行く。展望風呂の窓から見える雨の日本海は鉛色で、もう冬が近いことを知らせているような景色である。

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チェックアウトして長岡に向かう。今回寄るのは、私は初めて行く山本五十六記念館と、すぐ隣の河井継之助。山本五十六元帥は日本連合艦隊の司令長官であった長岡出身の有名人物。あの時代の海軍で最後まで開戦に反対していた事は知っていたが、ヨーロッパ、アメリカと世界中を訪れており、アメリカには3年間暮らしていたとは興味深い。海外を知っていただけに戦争に反対の立場だったのだろう。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」は私も若い時から聞いていた有名な言葉。ソロモン諸島でアメリカ軍の戦闘機に撃墜された時の飛行機の主翼の一部と座っていた座席が展示されている。

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河井継之助は幕末の長岡藩の家老で新政府軍と戦った人物。昨年、既に完成してコロナの為公開延期になっている河井継之助を描いた映画「峠」は来年公開される。

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お昼にも日本酒を一杯(いっぱい)帰ったら3日間は断酒しよう。

 

26日に眞子様が結婚される。銀行も使ったことが無いであろう眞子様は渡米して、生活基盤を作るため様々な問題をクリアしていかなければならない。まずは住居を決め、おそらく小室さんの務める会社がスポンサーとなっての永住権の申請の為の手続き、労働許可書の習得、永住権の習得、という過程を取らなければならない。そのほか、医療保険への加入、アメリカの運転免許証の習得、銀行口座開設、クレジットカードの習得、就職等、しなければならない事は多く、眞子様にはダメだったら帰国と言う逃げ道はない。

今回の一連の炎上震源地は限られた人たちによるという意見もある。小室さんの母親の件でさまざまなバニシュメント、そこまでして追い詰める必要があるのだろうか。いろんな意見があろうが、小室さんは3年前に『面倒な事は嫌だ』と婚約を解消できたはずだが、眞子さんを捨てることなく3年半の遠距離恋愛をやり遂げて結婚に至った誠意は、誰にでもできる事ではない。

またアメリカでは幾分自分のキャリアを誇張して職に就くのは当たり前の事。彼はこれから新しい職場で会社に必要な人であることを証明しなければ安定した仕事にはならない。実はそれがアメリカでは一番大変なことなのである。

そして、元婚約者の方も、もともと自分の意思で生活費と入学金を納得の上で援助したはずで、例え婚約解消になっても自分の責任もあると思う。今更これを問題にするのは男らしくない。小室さんが都合のいい事しか言っていないと言う意見同様、元婚約者も自分に都合のいいメディアとしかコンタクトを取っていない様にもみえる。

 

重箱の隅を突っつく様にあらゆる負の情報を集め、小室家への悪意のある書き方ばかりで誹謗中傷が未だ止まらず、都内ではユーチューバー主催の結婚反対デモまで行われている。皇族の身分を離れる時に支払われる一時金が国民一人当たり1円の負担だとか、真子様も何かと事を荒立て非難する人達を一時金を辞退することで納得してもらおうと考えたのであろうが、何をしても納得しない人がいる。いろんな意見があるのに、あたかもそれを国民の総意として拡散させるメディアは無責任である。国家公務員の退職金の様に、一時金は受け取られて良いお金だと私は思う。

 

この事態に対する外国のメディアの反応は「ほとんどネットいじめ」と伝えている。言う方は何の痛みも失うものも無く正義感を振り回すが、言われる方は複雑性PTSDになる程追い詰められ、大変な心痛を受ける。これは島国的で過度な干渉で、こんなことをしていたら皇室に嫁ぐ人が居なくなる。それは天皇制を維持することが出来なく成る事を意味する。

 

ノーベル賞を受賞した真鍋さんは米国では周りを気にせずやりたい生き方が出来ると言っているが、確かに眞子様は日本よりアメリカでの生活の方がストレスを感じることなく自由に楽しむことが出来る事でしょう。私は眞子さまのNYでの新生活が、静かで平穏な生活になるよう、幸せを願って、結婚を祝福してさしあげたい。

 

エピソード 8

私が70年代初め、ユーラシア放浪の旅で日本へ帰る中近東陸路の旅で出会い一緒にイスタンブールからインドまで旅をした仲間の一人Aさんは帰国後しばらくは商社に職を得てフイリピンに駐在したりしていたが、その後東京の英国大使館に転職して退職するまで働いていた。英国大使館は東京の外国諸国でも一番恵まれた一等地に建物を構えている。東京都千代田区一番町1は皇居とお濠を挟んだ半蔵門の前にある広大な土地にあり、なかには大使館の建物と数軒の一軒家が並んでいた。

 

私の友人Aさんはそこでメインテナンスの責任者をしていて、何時呼び出しがあるか判らないので、そのうちの小さな一軒家を使わせてもらっている数少ない日本人であった。そんな一等地の一軒家の家賃が月に3万5000円と言っていたと思う。80年代後半、私が日本に帰国した時、その彼の家に2回ほど泊まらせてもらったことがある。つまりイギリス大使館の敷地内に泊らせてもらったのである。その頃はセキュリティーもうるさくなく、夜、大使館の中を案内してもらった。その後、テロが警戒される時代となり、セキュリティーも格段と厳しくなり、そんなことは不可能になった。まだ平和な時代、Aさんと一緒ならほとんどチェックなしで中に入れて泊まる事も可能だったのである。イギリス大使館の敷地に泊った人はそう多くは無いはずである。

 

彼は90年代後半に大使館を退職後、中国人の奥さんと、娘を連れてアメリカロサンジェルスに移住してきた。私が帰国し、彼がアメリカに移住する事になるとはその頃は思いもしなかった。人生思い立てって自分が動き出せば変わって行くが、先は判らないものである。

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ミーちゃんは今月9日に一歳になった。人間でいえば20歳の成人式を迎えたことになる。我が家に来て10か月ほど、可愛い我が家の一員であるが、最近甘やかしたせいか、ちょっと態度がでかい。

 

コロナ禍にて +エピソード 7

 +外出自粛の続く中、三条のKyowaクラッシクカー& ライフステーションに行ってきた。この博物館はプラスチックの金型を作る共和工業株式会社のオーナーが集めたクラッシクカーと明治、大正、昭和レトロの日常品を展示している収納室的な博物館だという。やはり一番関心のあるのは車である。今は予約制で、私が行った時は客は私ら夫婦だけだった。

昔、最先端の車も今はクラッシックカーの分類で、20代で乗った事のあるブルーバードSSS、いすずベレット等、懐かしい車が沢山展示され、マツダ・コスモに試乗させてくれた。

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              スーパーカブ

30年ぶりのクラッチ車、年代物のコスモはシフトがなかなか入らず、セカンドギアで発進してくださいとのこと。構内のコースを5周。60年代半ばまでのほとんどの自家用車はその頃の平均初任給の年収の5倍もしていた事実には驚きを隠せない。その後、オート三輪ミゼット、スバル360など大衆車が生産され一般国民へ普及していく。ここには他にも、昔父親が通勤に使っていたホンダスーパーカブや、子供のころ見たり使ったりした懐かしい日常品も展示されており時間のたつのを忘れて過ごせる場所である。

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生活の歴史を体験できる「KYOWA クラシックカー&ライフステーション」/三条市|新潟県観光協会公式ブログ たびきち|【公式】新潟県のおすすめ観光・旅行情報!にいがた観光ナビ (niigata-kankou.or.jp)

 

眞子様と小室さんの結婚が年内にも予定され、連日ニュースになっているが、4年間も結婚への思いが変わらずに遠距離恋愛が続いたと言うだけでも大変なこと、私は純粋に結婚を祝福して幸せになって欲しいと願うのです。世間ではすぐに『国民の税で、、』と言うが、皇室をもつ日本では、皇族方はいろんな公的機関の総裁等を務められ、自分の時間を犠牲にして公務をこなされている。真子様は一時金を辞退されるようだが、これは国家公務員が給料をもらい、退職金を受け取るのとなんら変わりはないと私は思うし、この先、病気、事故など海外で想定外の事に直面されるかもしれない、それでも眞子様には実家に帰ると言う選択肢はないのである。一時金は受け取っていいお金だと思う。

だいたいがこの『国民の税金でどうの』といちゃもんを付ける人たちはコロナ禍のストレス解消の為にSNSなどで発信しているように思えるし、その中には生活保護を受けたり、ほとんど税金を納めていない人達も含まれていると思う。外国で自分の生活基盤を安定させる事は簡単な事ではない。全てを用意してもらえる駐在員は別格で、スーツケース一つで渡米した留学生と言う立場から、渡米して3年少しでそれをやり遂げた小室さんは凄いのである。

安定した収入と生活基盤を得るまで私は6年かかったし、大体がそのくらいかかっている。小室さんの場合、まだ永住権の習得やら、医療保険、なによりも職場で自分の地位を確実なものにすることなど、クリアしていかなければならない事は多いが、異国の地でわずか3年間でその目標のため努力をしてここまでやり遂げて来たのは事実であり、誰にでもできる事ではないのである。SNSや一部メディアは重箱の隅を突っつく様に負の情報を探り集める。そんなことをして他人の幸福を邪魔する様な生き方はしたくない、私はお二人の結婚を無条件で祝福してあげたい。

 

東京での感染者が劇的に減っている。しかし、安心するのはまだ早い、ワクチン効果で無症状の検査に引っかからない人が増えているせいかもしれないし、一度油断したら、すぐに第6波がくるのは目に見えている。新潟市の感染は減ってはきたが、ここ数日は下げ止まりの様子を見せている。市内感染が一桁で安定したら、温泉なども考えようと思っている。

このウィルスは地球上から消滅することはないだろう。ワクチンが行き渡ったら次に考えられるのは治療薬や抗体ワクチンを使ったコロナと共存する社会であろうか。

参考までに先日発表になったデルタ株に対するワクチンの効果を示す数字を書いてみる。ワクチン未接種者は2回接種者より感染率が5倍、入院率が10倍、死亡率が11倍多いそうである。未接種者は治ってからも長く後遺症に悩まされる人も多い。この数字をみたらワクチンを受けない選択は考えられないのだが、世間にはいまだに頑なに受けないと言う人が居るのである。アメリカではワクチン接種、ワクチン接種証明書の提示を義務化する方向に向かっている。接種反対派は接種は個人の自由というが、感染して周りの人や、医療機関者に迷惑をかけない為にも、受けて欲しい。これもまた規制あっての自由であると私は思う。

 

エピソード 7

もう一つ、拳銃の話

Yamatoレストランで働いていた学生の時、T君と言う5歳くらい年下の男がいた。ある日、仕事の後、暗い帰り道を歩いていたら道路の反対側から黒人の男二人に呼び止められた。無視して歩くと付いてくる。「これは、まずいな」と小走りに逃げようとすると、追いかけて来る気配、と思ったら突然ピストルの音がして、お尻に衝撃が。撃たれたと思った彼はなんと『死んだふり』をした。熊じゃないんだから死んだふりはないだろうとおもうが、相手は「ああ、当たったか」と言うようなことを言って逃げていった。結果的に死んだまね作戦は成功だったのか。

幸い口径の小さな拳銃で、お尻にあたった弾は急所を避けていて、救急病院に行ったら、応急手当をしただけで、「そのままにしておきましょう」であったそうで、今でも彼の臀部には拳銃の弾が入って居るはずである。大体、口径の小さなピストルは殺傷力は小さく脅しの目的で持っているケースが多い。

その頃、彼はYamatoでも一番の若手でありながら、ちょっと愛嬌のあるが生意気なところがあり、皆からのイジられキャラだったので、数日休んだだけで仕事に戻った彼は「Tなら俺でも撃ちたくなるわ」などと変わらずイジられていた。

 

その後、20年くらいたって、Tがお店を持ったと噂に聞き、行って見たことがある。すっかりあのおもしろ生意気なキャラを封印し、いい寿司屋さんになっていた。そつのない接客が出来るようになっていたTに「あのキャラは何処で封印したの?」と聞いたら、「修行中にお世話になった大将が厳しく鍛えてくれたんですよ」と、言っていたが、あの銃弾がお灸になったのかとも思う。今もお尻に銃弾を抱えているだろうが、彼は今はどうしているだろうか。

 

喉の手術の為に2日間ほどUCLAの大学病院に入院したことがある。二人部屋に夜中に運び込まれてきたのは拳銃で撃たれたと言う黒人のギャングであった。隣で「手術代はロサンジェルス市が治安の為にかけている保険で賄える」と言うような話をしている。傷は大したことはなかったようで翌朝退院していった。アメリカはともかく入院期間が短い。盲腸くらいの手術なら日帰りであるし、手術が済んだらすぐにリハビリで追い出される。医療費が高いアメリカではなるべく医療費を低く保つため、入院は最短期間、薬も最低限必要な物しか処方しない。日本に帰って通院の度に新しい薬が増えていく。

 

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ミーちゃんも来月9日で一歳になります。