村上瀬波温泉+エピソード10

我々が温泉に行く予定をたてるとコロナの感染が減ってくれる。今回は日本だけ奇跡的に激減している。今月に入り新潟県では0の日が続き、たまに感染者がでても2~3人。東京も30人以下の日々。この機会に村上市の瀬波温泉へいつもの3人で行く。村上市はO君がかって支店長をしていたことのある地で、予定を立てる間に村上市の旧友が是非一緒に夕飯をという事になったと連絡があった。大観荘に夕飯だけの予約を取ろうとしたら、県と市から援助が出るので日帰りより泊った方が安いと言うので、村上の3名も泊る事になった。 

 

お酒大好きのO君の友達は只ものではなかった、だって宿でこれから夕食がでるのに、刺身の盛り合わせを持って来た人は初めてみた。「地元の漁港から買って来たから間違いなくホテルの夕食に出る刺身より美味しいですよ」という、大瀧はいつもの様にフロントで「お酒の、持ち込みをしたいんですが?」と聞いたら「1本くらならいいですよ」と持込み料を取らないという。前回もそうだったが、本当に新潟の人は商売っ気が無い。しかし実際は一本どころか4本の日本酒が持ち込まれていた「一本づづテーブルに置いてたら判らないよ」とのこと。村上の皆さんは全員市役所で働いていた人たちと聞いたが、ええのかい?彼らの 部屋は行き来しやすい隣の部屋 。夕食は6時からで、我々6人には食事は個室を用意してくれた。

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これはまだ夕食前の宴

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見た事も聞いた事も無い持ち込みの刺身盛り合わせ

そんなわけで、温泉に入って4時半ごろから彼らの部屋で飲み始める。村上は昔からの鮭の産地。村上藩はここの三面川で世界で初めて鮭の人口ふ化に成功した。鮭は大きくなって生まれた川に戻ってくるが、実は本当に美味しいのは川に上がって体力を使う前の海で獲った鮭だそうで、持って来てくれたのはそんな鮭から手造りした鮭の酒びたしなど。Sさんは地元の鮭道場で人達に塩引き鮭の作り方の講師をしているそうで素人ではない。彼の作ったお酒に浸して食べる乾燥鮭「鮭の酒びたし」は地元のお店で売っている以上の高級品で絶品でした。

6時から宿の夕食の本番なのに、すでに前宴会でかなり出来あがっている。

村上はいろんな産物が採れる、宿の食事は豊富な地元の食材づくし。楽しい会話と美味しい料理を頂きました。これで県民対象の割引を使って、更に2000円分のクーポンを貰うと5000円そこそこで2食付き一泊。

ここは海に沈む夕日が売り物の海辺の宿であるが生憎の雨空であった。夕食後も部屋に戻って宴会の第三波は続いた。

 

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目の前に粟島が微かにみえる

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こちらが本番の酒宴の席

翌日、村上市内の老舗「千年鮭きっかわ」へ行く。お店であり、観光地でもあるが、O君と店内の吉永小百合さんの大きなポスターの写真を撮っていたら、吉永さんと出会った風にという我々の企てに気づいた客のおばさんに大笑いされてしまった。

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鮭の博物館であるイヨボヤ会館では鮭の獲れる三面川の底に行く通路があり、ガラス越しに実際に遡上する鮭の姿を見ることが出来る。

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小雨の中を村上市街地東端にそびえる臥牛山(標高135メートル)の頂に築城され、歴代の村上藩主の居城であった村上城址に上る。ここからは海まで続く市内が一望できる。

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エピソード10

ユーラシア放浪の旅から戻り、大学を出ても、就職しないでまた海外へ出た私は、世間的には一般的なレールから外れたドロップアウトの人生のスタートであった。2度目の渡航はもともと夢を追ってのチャレンジであったので、気持ち的には何時か社会に戻ると言う決意と余裕があったように思う。その後、それはアメリカで永住権を取り正式に働くことが出来るようになれば生活の基盤を築けると言う確信のようなものとなった。実際その頃はJapan as #1と言われた日本の国力が伸びていた時代で、アメリカでは日本人が重宝される需要があり、アメリカン サクセスのようなチャンスがいっぱい転がっていた時代であった様に思う。

結局29歳までのアメリカでの生活は旅行と学生とアメリカ永住権を取るための日本レストランでの仕事で遠回りの人生を過ごしていたが、永住権を取ってからが、本当の社会人としての出発であり、ドロップアウトからいっきにカムバックして行くことになる。

最初は日系の専門商社で1年ほど勤め、もっと良い仕事を探していた時に、そのころ先に通関業務の会社で働いていた親友Sさんが、「アメリカの物流会社が日本人を探しているよ」という情報をくれて、面接を受けて採用となった。そこが私が36年間働く場所となったロサンジェルス・ロングビーチ港でも物流の大手であったCalifornia Cartage Companyであった。(現 NFI CalCartage) 

アメリカの会社であったが、その時、私を面接して採用してくれた直接のボスとなり、お世話になったのが日本人のCさん。Cさんは日本で学生運動で捕まって裁判で「父親のアメリカ赴任に付いていけば無罪釈放」という条件を出され、船会社の駐在員であった父親のもとに送られアメリカに来たと言う経歴の持ち主であり、凄く仕事の出来る人であった。私はCさんに教えられ、鍛えられ、その後の物流業界でのキャリアをスタートさせた。

 

これは私にとってはその後のチャンスを与えられた幸運なスタートであった。しかし、アメリカでは職を得た後、自分が会社で必要とされるポジションに付いて初めて安定した職に就いたと認められるのであり、それまでが大変なのです。(だから小室圭さんはこれからが真価を問われる場であり評価されるのはこれからだと私は言い続けているのです)私は幸運にも、80年代から90年代は様々な日本の会社がアメリカに進出してきた時期で、そのアメリカサイドの物流にかかわることができた。Cさんは私が入社して6年くらいで退社され、以降は社長が私の直接の上司として退職まで仕事を続ける事が出来た。

 

人との出会いに恵まれて、いろんな人に助けられた私の人生は、若い時に旅に出た時から一期一会の人との出会いを大切にしてきたおかげかと思う。

 

今週のミーちゃん

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