雪と桜 +エピソード18

アメリカにいる友人Kさんは最高の素材を使って手造りされるスイスのスキーメーカー「ストックリー」の大フアンであり、ことあるごとにストックリーの良さを説いている。もう最後のスキー板と思って帰国時に買ったスキーも4シーズン目を迎え、「ストックリーのニューモデルは良いですよ」とLINEでも言い続けるKさんの催眠術にかかったのか、ニューモデルが欲しくなって、買ってしまった。Laser SL、これで私もストックリーに乗って6本目になるから立派なストックリー信者のようである。

新しいスキーを手に入れたら当然早く乗ってみたくなる。タイミングよくH君から「4月にもう一回赤倉に泊まりでいきませんか?」と。お誘いがあり、天候で最初より少し予定を早め4月9日ニュースキーを持って妙高赤倉に向かう。

6時半に新潟市を出て快晴の赤倉観光リゾートに着いたのは9時前で、すでに斜面の雪は緩くなっている。

ニュースキーを試しながら一本滑るとI 君から「ゴンドラなう」のラインがあり、しばらく待つてI君と落ち合う。数本一緒に滑っていると彼に仕事の電話があり地元の彼は昼前に急に帰らなければならない事になり、H 君夫妻が上がってきたのと入れ替わりで帰る。

ニュースキーは青色のデザインが格好良いスラローム用のスキーでしっかりと乗るとくるりと回ってエッジが雪面を捉えてくれる。オールマウンテンでないが上級者に評判のいいスラロームスキーなのでショートターンに向いている。本来は春スキーではなく、もっと整備され踏み固められた雪質で特性を活かせるスキー板である。それでもちゃんと反応してくれてエッジのグリップが良く安定感がある。最近の私は雪質により板を選んで使っている。

リフト降り口近くでマンモスのマークのステッカーをsnowboardに付けたカップルを発見「それ、マンモスのステッカーですよね」と、話しかけてみる。日本のスキー場で、これを見てカリフォルニアのマンモススキー場のシンボルマークだと気づく人は少ないだろう。私の他のスキーには同じマークのステッカーを貼った板もある。5年間マンモスに住んでいたと言う若者と、もっと話がしたかったが、このご時世で1分ほど話しただけで、深い会話は出来なかったのが残念。

               私のスキーに貼られたマンモスマークのステッカー

3時過ぎに上がって、金甚にチェックイン。富山県黒部のH君のスキークラブの仲間が来ていて同じ宿に泊まっていた。来るのは知っていたが天候の為予定を早めたことは知らなかったと言う。

 

温泉に入って食事をして、ネットで世界ミドル級スーパー王者村田諒太の世界王座統一戦を見ながら飲み続ける。

 

10日、桜の名所高田城址公園の快晴の空に今日の11時にブルーインパルスの飛行機が桜の模様を描くとニュースになっていた。運が良ければ妙高の麓からも見えるかもしれないと試みたが、見えなかった。

指導員の資格を持つH君に途中で停まりながらアドバイスを受けて滑る。まだまだ目指す処は遠いが、連日滑る時はこの位ゆっくりのペースがいい。

今回は春雪用にもう一本ストックリーを持って来ていたが、つぃかう事は無かった。最近のバインデングは工具無しで簡単に靴に合わせる調整が出来るのでH君にニュースキーを履いてみて貰い、私が彼のスキーを履かせてもらう。ストックリーはH君のいつか欲しい憧れのスキー板というので、硬い雪を滑る機会が有ったらまた試して欲しい。

11日は昼前に上がって私が二人を誘って高田城址公園の桜を観て帰ることに。今ちょうど満開の時期であり天候も良い。まだ蕾の妙高の桜から、山を下るに従い開花していき、高田平野まで下りると満開となった。混雑が予想されるが私の実家に駐車したら公園まで歩いて5分ほどである。3人でクレープを食べ、満開の桜を堪能する。

青空に映える満開の桜が美しい。H夫婦と別れ、実家に寄って100歳になった母の顔を見てから新潟市へ戻る。

そして、今の季節に公園内に咲くカタクリの群生は10年前に亡くなった私の父が、上信越自動車道が造られた時、山奥のカタクリの群生が潰されて行くのを見て、自転車で何度も通い採取して公園に母と移植した思い出の花である。父のカタクリは今年も元気に咲いていた。

新潟市に戻って、すぐ翌日、我が家の裏庭と称する裏の公園の桜も満開で、友人が4人集まり、ひっそり、目立たない様にお花見。コロナ禍でも他にはほとんど人が居ない場所だから、久しぶりに集う友人との飲み会は楽しい。

エピソード 18

アメリカの会社で働いていた私は、ロスアンジャルスという日本との窓口の土地柄のためアメリカに進出しているほとんどの日本の物流会社、商社さんとお付き合いがあった。2001年9月11日の朝、オフィスに行くと皆がコーヒールームのテレビの前に集まっていた。高層ビルが燃えていた。アメリカ同時多発テロであった。その時、2機目の飛行機がニューヨークの貿易センターに突っ込んでいき、ビルが崩れていく様子を映画の一シーンのような思いで見ていた。

 

2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う津波で人や車が波にさらわれていくテレビの映像も衝撃的であったが、9・11はそんなテレビニュスの凄さを最初に実感した瞬間であった。その9・11の1年ぐらい前、ニューヨークの貿易センターに出張で訪れていたので、その時にお会いした方の安否が心配であったが、何もすることができなかった。

 

アメリカで各地に出張したが、私は出張も接待も「必要と思う事はやって良い」と社長に言われており、申告制であったので、ある意味、つきあいのある会社があれば自分の行きたい所に行けた。その他に私は家族の航空費も出して貰い、年一回の日本出張と有給休暇をもらっていたので、毎年一週間は東京でお客さん周り、その後は一週間実家に帰って休暇を過ごすことが出来た。会社のオーナーであるカリー社長はオールマイティーの存在であり、会社は順調で、彼の一言は絶対であり、私には総合的には大手商社社員並みの待遇をしてくださっていたと自負しております。

 

30歳までドロップアウトして定まらない人生を過ごしていた私には恵まれた職場であった。しかし、キャリアの無い新入社員として入社したところから登って行ったのだから適正もあり、努力もあったのかと思う。

 

それにしても人生は砂上の楼閣。時の巡り合わせで、ウクライナで幸せに暮らしていた人たちがプーチンという一人の男により一瞬で戦火の真っただ中に置かれる状況はやるせない想いである。世界にはいろんな意見があろうが、他人の犠牲を顧みず、客観的事実を歪曲して自分の都合のいい解釈をする人が居る限り永遠の平和はない。

今週のミーちゃん