スキー繋がり+エピソード15

前から連絡のあったKさんと胎内で落ち合って滑る事になり、27日、胎内に向かう。Kさんの他にYさん、Hさん、が参加してくれる。彼らは2019年にイタリアのコルチナ・ダンペッツォにスキー旅行に行った時に偶然知り合った人達で、新潟市からのスキーヤーが偶然居たことに驚き、我々がベニスに行く前日に一緒になるはずのスケジュールであったが、その日に連絡先の交換をさせてもらおうと思っていた。しかし彼らはその日をスキー日でなくワインを楽しむ日にしたようで会えなかった。

 

ガイドの清水さんに託したメッセージが彼らに渡り、帰国後連絡を貰った。そして、なんとHさんは私のマンションの向かいに住んでいたと言う偶然。あの時、私が書いて託した一枚のメッセージが繋いでくれた出会いであった。

イタリア・スキー遠征 - skizanmaiの日記 (hatenablog.com)

 

帰国後、連絡を貰い、彼らが80年代の日本のスキーブームを作った映画「私をスキーに連れてって」のスキーシーンの監修をした海和俊宏プロを新潟市に招いた時は、私を誘ってくれて、一緒に会食をした。Yさんとは食事に出て、Kさんとは時たまメールのやり取りをしていたがコロナ禍となり、なかなか一緒に滑る機会が無かった。彼らはコロナ前まで毎年アメリカを車で走る旅行に行っており、スキーとアメリカの旅の話が出来る。

 

今日は曇り空で明日からは雪が降る予報。残念ながら雪質は期待できない。9時半からゲレンデに出て滑り始まる。5本ほど滑って約束の10時半前にロッジに入ると、Kさんと会う。レストラン前でYさん、Hさんに久しぶりに会い、ご挨拶。

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    前をいく3人、皆さん巧いベテランスキーヤー

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                Kさん

皆基本はスキー繋がりの仲間であるが、知って行くにつれ、皆さんなかなかの方々。やはり平日にスキーに来れるのは私のような退職者か、誰にも文句を言われない会長さん社長さんが多いよう。Hさん、Kさんは私より10歳ほど若く、会社の経営者。Yさんは私より6~7歳上で、数年前第一線を退いたそうだが、新潟県の経済界の重鎮で今でも噂では胎内市の半分は彼の物だとか(?)実際、胎内スキー場にも、古くから関わりスタッフ用のシーズン券を持ち、胸には胎内スキースクールの金バッチを付けておられる。「胎内スキー場は胎内市の公営ですか?」と聞いたら「半分はね」と軽く答えられたが、後で思ったが、あれは『残りの半分は私ね』(笑)という答えだったのかもと、思ったのであった。

 

昭和40年開設の胎内スキー場は、新潟下越地方では一番の規模のスキー場で、80年代のスキーブームの時はものすごい数のスキーヤーが訪れたそうで、その頃、雪面いっぱいにスキーヤーがリフトを待つ写真が食堂の前に展示されている。コロナ禍で下越に残る上級者も楽しめるスキー場は胎内だけとなった。ここが閉鎖したら気軽に日帰りスキーの出来る所が無くなる。今後も、営業を続けてくれる事を願うだけである。あ、これはYさんにお願いすればいい事かも。

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皆さん忙しい方たちで、午後から仕事があるそうで、早くに戻らなければならないそうで、すぐに鹿ノ俣ロッジに移動して食堂に入り早々の昼食がギンギスカン。この時間にノンアルビールでジンギスカンは初めての経験である。

 

食事の後、YさんとHさんは午後の予定の為、帰られた。少ししか一緒に滑れなかったが、わざわざ来てくれたことに感謝。Kさんも午後から会社に顔を出さなければならないそうで、それでも1時過ぎまで私と滑ってくれた。硬いコンデションの良くない雪だが、4本ほど滑った一番奥の風倉高原第1リフトの斜面は硬度があり雪質も他より良かった。少し雪が降り始め、気温が下がるのを感じる。私もKさんに合わせて1時過ぎに上がった。

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 胎内スキー場の全景

雪の知らせに2月2日に胎内にもどる。昨晩降った10cmほどの新雪が嬉しい。この雪の為に、天候が悪い中を胎内に通う。少し重いが、踏み固められる前の雪はエッジが食い込み気持ち良く滑られる。一人で滑る時は二通りの滑り方をする。じっくりと金子プロのレッスンを思い出しながら滑る時。そして何も考えずひたすら気持ち良くターンを楽しむスキー。それを交互に繰り返す。ほとんど休みなく3時間滑って駐車場で持って来たおにぎりを食べて、すぐ近くにある胎内パークホテルで温泉に入って帰る。

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風倉第二ペア下のコースは鉄塔の下を通る珍しいコース

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鉄塔の下にて

胎内には、ここを含め、私が入った事のある温泉が3か所ある。割安の公共温泉施設は何時も混んでいる。スキー場に近い胎内パークホテルの温泉は値段は800円と高いが、空いているので、ゆっくりと湯に浸かる。第二露天風呂からは遠くにスキー場のゲレンデが望める。

雪が降ってきた。この天風呂の半分は屋根が無く、顔に雪が降り注ぐ。これもまた良し。今週末はまた降雪の予報。この本格的な冬も今が盛り、今月末には桜の蕾も膨らみだし、春の気配を感じさせることだろう。冬が終わると、春の訪れももうすぐである。

 

エピソード15

世界は広くて狭い。

人との出会い、縁に驚く事がある。広い地球上での偶然の出会い。砂漠で一粒の砂同士が触れ合うような確率の中で記憶に残る偶然に驚く事があった。

エルエーでの日系社会では思わぬ人との繋がりに出会った「友達の友達は友達だ」という状況を何度か経験したことがあった。

 

アメリカで知らずに出会っていた女性で私のアメリカの投資アドバイザーをしてくれているCKさんは出身地が同じ故郷と後で知り彼女は高校の後輩でもあり、私の良く知る同級生で今はスキー仲間でもあるK君の従姉だった。

 

仕事で日本から私のオフィスを訪問した人が高校の後輩で、共通の知り合いが居た事もあった。故郷の人は世界でも方々で活躍している。

 

親友Sさんがサンタモニカで一時借りていた家の家主がKさんという千葉県の出身であった。その後、離婚して日本に帰国して数年で急死された、その時にアメリカに残っていた家族に日本からコンタクトしてきたのが、私がアメリカに上陸した翌日に日航のオフィスで会ったアメリカでの最初の友人であるTさんであった。二人は千葉県習志野の同じ町内で一緒に育った幼馴染であった。

 

その他、出会いで驚いたのは大和レストランで一緒に働いていたTHさんが、私の中学・高校の同級生であるSくんと京都の大学で親しかったと聞いた時、THさんは空手を教ええている空手家でもあり、常にカラダを鍛えていて、私がたまにフラストレーションを発散させたいと言うと、それもトレーニングと二つ返事でお腹を殴らせてくれたりしたのである。そして日本での同窓会の席で、アメリカで貴方を良く知る人に会ったよとS君に伝えた時は誰よりも驚かれた。

 

湯沢のSさんは私がマンモススキー場で偶然声をかけた人であったが、彼は私の親友三島のSさんの知り合いの私も知るKさんを日本から知っていて、Kさんを頼ってアメリカに来たという親しい間柄であった。

(ところで、親しい友人でもなかなか会える機会の少ない人が多いなか、この二人とは頻繁にマンモスに通い、長年密接な関係を保ち続けられたので、ここにもスキー繋がりのおかげが大いにあるのである)

 

2019年のイタリア・スキーの旅にも書いたが、全国から集まったスキーツアー客の中に、新潟市からの4人組のグループが居て、そのうちの一人は私のマンションの斜め向かいに住んでいた。

同じツアーで四日市から来ていたTさんの弟さんが東京で大手物流会社の引っ越し部門で働いていて、私がエルエーから日本へ引っ越す手配をしてくれた米国支店の引っ越し部門で働くスキー仲間でもあるKさんと頻繁にやり取りをする関係であった、などなど、「え!こんなところで繋がりがあったの?」という出来事は頻繁にあった。

 

70年代にヨーロッパ旅行中に会った、これからコンゴ川をゴムボートで下ると言っていた人の冒険の結末を中米で聞いたことも記憶に残っている。

 

初めて海外に出た時、確かに世界は地理的に大きくて、人間の繋がりでは狭かった。あれから更に文明は進み、インターネットで繋がった世界はより狭くなり、世界中の誰とでもすぐに連絡を取れるようになった。いままでも出会いを大切にしてきたが、おかげで偶然出会った人とも連絡を取り続ける事が出来、友達が増え続けている。一期一会の意味も時代と共に変わってきている様に思う。

 

今週のミーちゃん

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