高田に生まれて(私のルーツ)+エピソード26

11月になり、いまだ新潟県はコロナ感染が増え続けているが、抗体抗原検査をして、千葉県に住む弟と、年が明けると101歳になる母に会いに里帰りをしてきた。久しぶりに兄弟もそろって、我々が帰ると聞いて急に元気になったという母とお寿司の昼食をとる。

              高田城址公園

その後、弟と有馬、草津にならぶ日本三大薬湯である松之山温泉へ一泊して、松代の菩提寺にお墓参りをし、幼年期を過ごした十日町市を訪ねる予定で、私のルーツを訪ねる旅でもある。松之山は風土が養蚕に向いていて母の実家は松之山で昔から蚕の種を売る蚕種業を営み、祖父は県内3か所に事業所を持つ新潟蚕種製造所という会社を持ち、その後日本最大の養蚕会社で松本にある片倉蚕種製造所と合併して県内全域の蚕産家に蚕の種を卸していた。一時は県会議員に立候補するほど羽振りがよかったという。祖父は落選したが、その時、地域の県会議員に当選したのが私の両親の仲人であった市川の叔父さんであった。市川の叔父さんは父方の私の祖父の妹が嫁いだ相手である。

 

ついでに書けば、我々の世代には懐かしい御徒町のランドマークであった吉池と、箱根湯本の吉池旅館の創業者は母の叔父さんにあたる。しかし私の一族で海外と関係のある仕事をしていたのは父の弟、昌隆おじさんが学徒動員で陸軍中尉から復員後総合商社ニチメンに勤め、海外出張などをしていたのを聞いたくらいである。昌隆おじさんは広島で原爆に会って、その時ちょうど兵舎の陰にいて爆風で倒れてきた鉄のドアの下になり助かった。その時倒れた鉄ドアを支えて命を守ってくれたのが軍刀に造り変えていった先祖から受け継いだ日本刀であった。その時の爆風で軍刀が曲がり、鞘から抜けなくなった刀がしばらくは実家にあった。

 

松之山温泉の野本旅館の60代と思える仲居さんと話したら、今はない母の実家の屋号を言うと知っていて、旅館に嫁いだ母の姉や、蜂に刺されて亡くなった弟のことも知っていた。祖父は養蚕・養鶏で地元の人が冬出稼ぎに出なくとも暮らせるようにした功労者でもあった。

 

菩提寺のある十日町市蒲生、私はここで2年間暮らしたことがある。昔は松代町の一部で、私の父方の祖父は若くして父を亡くし、3歳の時から宗家の長男として会合では一番上座に座らされていたという。若いころはいろいろな事業に手を出したが、おぼっちゃま経営でどれも上手くはいかなかったようだが、世界恐慌で大勢の保証人になり、さらに戦後の農地解放で先祖からの田畑地代を無くしていた。私が物心ついたころは祖父は松代町の助役をして次の町長と目されていたが体を壊し50歳くらいで早期退職をした。

12年前に亡くなった父も眠る菩提寺のお墓参りをして十日町市にむかう。

 

高田市(現上越市)で生まれた私は教員であった父の赴任で1歳になる前に十日町市に引っ越した。私が物心ついてから10年間を過ごした懐かしい十日町の学校町はすっかり様子が変わっていた。子供のころ夏祭りのお囃子の音色を聞いて遊んだ諏訪様神社は周辺を杉の大木が覆っていたが、今は杉の木がほとんどなくなっている。神社は建て替えられたが、向かいの宮本公園には昔からの石碑、銅像が残っていた。十日町に京都西陣の技術を伝えたという宮本茂十郎の石碑には新しい1万円紙幣の顔になる渋沢栄一による碑文が刻まれていた。

 

母の妹の叔母は絹織物で有名な十日町の織物工場に嫁ぎ、ずいぶん前に工場は閉めたが今でも十日町で暮らしている。「今度新札の顔になる渋沢栄一の名前を宮本公園で見たよ」というと「私のとこにもあるよ」と指差したのがこの写真。

富岡製糸場を作った渋沢栄一は養蚕、絹産業の発展に尽くし十日町にも縁があり宮本茂十郎の石碑の文字を書いたそのころ、織物組合の組合長をしていた十日町の大おじいさんが反物を送り、そのお礼に頂いた手紙だそうである。しかし、良くとっておいたものである。

 

私が暮らしていたころの十日町市は織物で活気があり、今思えば昭和の古き良き時代を象徴するような地方都市で、街中からがっちゃん、がっちゃんという機織(はたおり)の音が聞こえていた。物心がついたとき、十日町の学校町と呼ばれていた小学校のすぐ前にあった教員住宅に住んでいた。弟はそこで生まれ、幼年期特有のその小さな空間が私にはすべてであり、だんだんと行動する世界を広げながら小学校5年までその街で3人兄弟の次男坊として育った。

 

春には雪解けの下から現れる野草の新芽に感動し、夏には入道雲を見て、クリスマスには本町のお菓子屋風月堂のショーウインドウに飾られたケーキのジオラマの世界を走る鉄道の模型に見入り、冬には雪に戯れ、幸せに暮らした思い出の地である。

 

小学校2年生で同じ十日町の学校町から6丁目に引っ越した。6丁目にあった校長住宅が空いていたので教頭であった父に声がかかったようだ。そこで自転車に乗ることを覚えると、一気に世界が広がった気がした。今回そこを訪れたら昔の住居はなくなり敷地は平地になっていて、そのころの面影は住む主のいなくなった向かいの岩崎さんの家がほぼ原形をとどめ残っていたくらいであった。

 

父も母も兄弟の多い家系であったが、今はおじさん、おばさんと呼べる人も少なくなった。風景が変わり、住む人が変わり、昔のことは、やがて誰も知らない過去の出来事の一つになるのであろうが、昔のことを知る人が在命のうちに少しでも記録を残したい思いもあって、ブログに書いている。

 

実際に訪れると60年の歳月はかくも無残に過去の様子を変える。懐かしい昔の風景は永遠に戻らないが、思い出はそれぞれの心の中に残り続けることだろう。今の世界は戦争やコロナのため悲しい思い出しか持てない人も大勢いる。あの時代のあの風景を思い出すたびに温かい幸せな気持ちになれる我々の世代は、戦後の平和な時代に多感な幼年期を過ごし、日本に経済力のあった日々に働き、自由に海外を動き回れる時代であったことに感謝したい。

 

エピソード 26

アメリカでJapan as #1といわれ日本のメーカーがどんどんアメリカに進出していたころ、様々なプラント・プロジェクトに関わらせていただいた。日本の某大手商社さんの荷物にダメージを出したことがあった。それは精密機熱処理炉で納品がおくれれば工場の立ち上げに遅れが生じる。一般的に物流の世界では各サイドが保険をかけていて、保険と言えば何かあったときに相手に保証するためではあるが、実際は自社が事故により訴訟を受け被害を受けることを防ぐためという意味合いが強い。

 

事故などで損害が生じたときにも、私が直接に荷主さんと話すことはほとんどない。互いに保険を掛けているので保険会社同士がやりあって保証額が決められる。それでセトル出来なければ裁判まで行くことになるが、それは保険会社同士のことである。

 

大概は大きくもめることはなかったが、その時の荷物は現地で修理できず、修理のため、日本へ送り返さなければならなかったので、4か月ほど全体の計画が遅れるということであった。事故を起こしてダメージを出したのは弊社であったが、梱包が十分でなかったのではないかとか、状況は複雑であった。保険会社同士が話し合うため、事前に事情を一番よく知る私に弁護士事務所から調書を取りたいと連絡があった。

 

ロングビーチの弁護士オフィスに行くと2人の担当者と速記タイピストがいて、記録は裁判でも使われるもののため、公文章として残すため口頭のやり取り、証言をすべて文章におこしていた。昔のアメリカ映画でみた裁判所での速記タイプのあれである。

 

途中何度か内容確認の時間がとられ、まる一日の面談は終わった。弁護士から取り調べのような内容が続く初めての経験であったが、弊社で事情をすべて把握しているのは私だけ、それにこの弁護士は私の会社のサイドの弁護士であり、相手方の弁護士と折衝に入るための調書つくりであったので、いたって友好的であった。

 

この時が私のアメリカ生活で最も弁護士との接点の多い時であった。その後、文章におこされたすべての会話のコピーが送られてきて、内容に間違いなければサインして送り返し、正式な裁判でも使われる書類となった。すべては代理人同士で話し合われてセトルして、その後もその某商社さんとの関係は私が退職するまで続いたのであった。

 

アメリカで方々の都市に出張したが、日系の会社の駐在員はセールスに行っても情報収集も大切な仕事の一部と、私がお会いしたいというと殆どの方が会ってくれた。アメリカの港湾へアジアから船で荷物を運べばその80%は西海岸で上げてトラック、鉄道で内陸へ運ばれていた。大手の商社・物流会社であれば全米に何か所かオフィスを持っているケースが多く、LAのオフィスと付き合いがあれば他の都市の方を紹介していただくことも出来た。

他の国籍の会社では料金を踏み倒して倒産するケースも経験したが、日系の会社は日本に信頼できる親会社がついているので、そういうことは皆無であった。そして現地で働く我々日本人たちはある意味、お互いをリスペクトして連携感を持って働いていたのである。

 

今週のミーちゃん

仕方なくお手をするミーちゃん