千葉県に住む弟を上越妙高の新幹線の駅に迎えて久しぶりに実家に里帰り。来年の年が明けるとすぐに103歳となる母に会い、お寿司を食べながら3時間ほど会食。母は好物のお寿司を美味しそうに食べてくれた。兄が家庭農園で育てた野菜、スイカ、イチジクなどをもらって、その日は弟と30分ほど離れた鵜の浜温泉、高台の宿・3景に一泊。
翌日、父の13回忌を兼ねたお墓参りで、菩提寺で兄と落ち合い、墓前でお寺さんにお経をあげてもらう。
その日は兄弟3人で昼食にヘギそばを食べ、兄と別れて新潟まで帰って、夕食は古町の8席しかない小さなお店でバル風の中華と紹興酒。
翌朝、県の北部の村上市に行き、笹川流れの観光船に乗る。手の届くところまでカモメが近づいてくる。こんな至近距離でみるカゴメは初めて。そして船内にある「カゴメを捕まえないでください」という注意書きの意味を初めて理解したのである。な~る程、ついつい本能を刺激されてカモメを捕まえてしまう輩がいるんだ。正直、10cmほどの近くに寄られると私も狩猟民族の血が騒ぎました。あぶねぇ、あぶねぇ、、ハハハ
村上城は残っていないが民俗資料館で席代藩主の刀剣、資料を見学。村上藩は早くに鮭の放流をして財政を立て直した歴史があるが、最近の数年は異常気象により水温が高く遡上しくる鮭が激減するという問題を抱え、第二の青砥武平治の出現を待っている。
今回は、足腰の弱った102歳の母が一生懸命に食べ、一生懸命に歩こうとして、毎日を頑張って、生きている姿を見て、母をお手本にして、私もいつか体が不自由な時が来ても両親にもらった命を大切に、一生懸命に生きて人生を全うしようと思った里帰りであった。
さて、今回の話には後日談がある。コロナが5種感染症に移行されて以来、急にマスコミでの扱いが減り、世間ではもうコロナは過去の話とされている感がある。私は未だに屋外か食事中以外は人ごみ、外出中はマスクをしている。19日の昼食に実家で母、兄、兄嫁、弟とお寿司と兄嫁さんの用意してくれた料理を食べながら3時間ほど会食をした。そして21日の午後、村上市の郷土資料館にいる時、兄から兄嫁さんがコロナと診察されたので気を付ける様にと連絡があった。前日まで普通にしていたし、どこで感染したかの自覚もないという。
そして、弟が帰って翌22日の朝、弟は軽い37度越えの発熱があったので用心のため医者にかかったら、コロナが陽性であったと連絡がきた。体温は38度くらいでその後は少し体の節々が痛み、軽い痰がでると言った症状でコロナ軽症との判断で、対症療法による薬を処方してもらっている。
私はワクチン接種を7回受けているし、私の一族全員はコロナの接種を出来るだけ受けている。私も検温を続けていたが、22日の夜、体温が37度近くと何時もより高くなり、翌朝23日のには38.1度。これは感染したと思い、すぐにクリニックにいくとタイミングよくすぐに見てもらえて、検査の結果は陽性。薬は対症療法の他に、65歳以上の方には高額ですが、ラゲブリオカプセル200mgという飲み合わせの悪い薬が無いコロナウイルスの増殖を阻害する薬がありますというので、処方してもらった。薬価は保険を使っても5日分でその他の薬剤を入れて自己負担が約2万7500円もする。
高額薬のおかげか、23日は37度代が続いてが、24日にはもう36度代の体温に戻り、体のどこも痛くなく、午後には平熱の36度5分、ほとんど咳も出ず一日に3~4回、軽く咳込んだ後、少量の痰がでるくらい。もともと喉の弱い私は、「コロナで喉が針を刺すように痛くて唾も飲み込めない」といった報告に喉の痛みを一番懸念していたが、とりわけ喉に異変はなくて良かった。
兄も弟と同じ位の発症で軽症、対処療法をしている。家内は23日から38度くらいの発熱で、市販の検査キットで調べたら陽性であった。少しカラダが痛く、痰がでるが、とくに医者にかかるほどではないというので家で市販の薬を飲んで過ごして体温も25日には36度代に下がってきている。
糖尿病の基礎疾患を持つ兄嫁さんは一番大変で、吐き気とめまい、そして両耳が聞こえなくなっているという。コロナ回復後に耳鼻咽喉科にかかるように言われたそうだ。長い後遺症とならずに回復することを願うが、やはりコロナはもう怖くないと甘く考えていてはならない。
一番心配していた超高齢の母は検査結果は唯一陰性で感染していなかったが、念のため抗ウイルス剤を処方してもらっている。まだ安心できないが、結果的には私が一番軽症で、24日にはもう平熱に戻り、兄からコロナ感染の可能性があるから注意するようにと言われていなければ気が付かなかったかもしれない。人により病状は違い、誰もが軽症ではない、5人に一人は深刻な病状になるという説も今回の一連の感染に合っている。くれぐれも、コロナを軽く見ないで過ごして欲しい。
追:私の年代に近い人たちは『24の瞳』と言う映画を懐かしく思う人も多いと思う。私も子供のころ見た、記憶に残る木下恵介監督の名作である。NHKBSによるリメイク版を見た。この映画で教職を目指した人も多かったことだろう。その時代、教職は聖職と言われていたのである。その後、でもしか先生と言われた時代もあったが、うちは教員一家である。『24の瞳』は戦後の反戦映画でもある。今度オリジナルで見てみたい。