やっちゃん

最近僕は誰もがその人にしか出来ない使命を持ってこの世に生を受けていると思うことがあります。

もう58年も前、僕が物心付いた頃、父は十日町小学校で教頭をしていました。1800人も児童のいる大きな小学校でした。その中にやっちゃんという小児麻痺の子がいました。
父はやっちゃんに会うたびに声を掛けてあげていました。小児麻痺の子は頭は悪くないんです。父はやっちゃんが数学が得意なことを知っていて褒めてあげていました。やっちゃんは父に声をかけられると嬉しそうにしていましたし、やっちゃんが数学を頑張って勉強している姿も見ました。

その頃の僕は小学校に上る前から学校のすぐ前に住んでいて、やっちゃんは僕より2つ上でした。近所に住んでいたので僕は彼と友達になりました。小児麻痺の子は頭が振れ、よだれを垂らしていますから、よく馬鹿にされていじめられました。そんな時、僕は大きな子にも向かっていきました。

僕らの遊び場は小学校の高学年と近くの中学の生徒たちも通る通学路の近くでした。僕は小学校の高学年でも中学生でもやっちゃんを馬鹿にする子には向かっていきました。

大きな子が当然威嚇してきます。でも街中の子が十日町小学校に通って、全員が十日町中学校に進学していた時代ですから、校外でも父に会った子供達はみな挨拶をしますから。その横にいる僕の姿を見て知っている子供がほとんどです。全員がいじめっこではありませんし、その子どもたちの中には必ず「教頭先生の子供だよ」と言って守ってくれる子がいましたから僕は殴られた事がありませんでした。

また、父はその頃、貧乏で栄養失調で倒れた子供の家に行って毎日大根しか食べていないと聞いて幾らかのお金を毎月おいてきて、その子を励ましていたという話を後で母に聞きました。

人にはいろんな可能性があります。その子にしか出来ない良さを感じ取って伸ばしてあげる事が出来たら、その子にとっては生きる自信になったのだと思います。

父は後年,耳がほとんど聞こえませんでした。5年ほど前「耳が聴こえないと言うことは、毎日が修行のようなもんだ」と僕に言ったことがありました。きっと父はその修業のお陰で赤いお迎えの乗り物を送ってもらえたのかと思いましす。僕もいつか、赤いお迎えの乗り物を送って貰えるように成れたらと思うのでした。

戦後、日本がまだ貧しかった頃の父の教員としての姿でした。