父の最期

10月28日、午後3時42分、父が93歳の生涯を終えました。

アメリカに暮らして38年になる私は、毎年帰国して父に会えることが楽しみでした。今までも何度か入院していましたが、約一年半前からは自分でトイレにいけなくなり、それでもオシメは使いたくないと、毎晩3度4度も母と兄夫婦にトイレに連れて行ってもらう車椅子生活の毎日でした。年々歳と共に弱ってくる父に、ここ数年はいつも、これが最後の別れになるかもと思いながらアメリカに戻っていました。

そして、父が生きているうちに、「急になにかあっても、アメリカから駆けつけるには間に合わないからね、お父さんのお陰で幸せに暮らしてきました、有難う」と言葉で感謝の気持ちを伝えてありました。

最後に父に会ったのは2ヶ月前に9日間帰郷した最後の日である9月1日でした。
8月に帰国した際も、7月に入院していて奇跡的に、無事に退院して私を迎えてくれましたのでした。私が帰った時はそれは嬉しそうに笑顔で迎えてくれました。そして8月31日に「明日、アメリカに戻るよ」と報告すると「アメリカに行くのかね?」と寂しそうに言ったのを思い出します。9月1日の朝、アメリカに発つ私を玄関まで見送って、一番最後に満面の笑顔で送り出してくれました。それが私の見た父の生前最期の姿でした。あの笑顔は私の一生の宝物です。

9月1日、この後、満面の笑顔で送ってくれました。

亡くなる3週間前10月5日に肺炎による痰が喉につかえて救急車で病院に運ばれました。その後、肺炎は治りましたが、抗生物質による耐性菌大腸炎で下痢を繰り返し。食べ物飲み物が口から採れなくなり、点滴だけで3週間病院ですごし、家で最後を迎えるのは本人の希望でも有りましたから10月26日に退院して家に連れて帰りました。

兄夫婦が母と共に本当に良く面倒を見てくれましたが、父が退院した時に持ってもあと数日と聞いていました。退院して3日目、アメリカ時間で10月27日の午後11時少し前に、母から「ほんのさっき、お父さん逝ったよ」と連絡を受けました。

それから夜中も開いている旅行社に連絡を取り、日曜と月曜の航空券を確保してもらい、翌朝早朝、兄からお葬式の予定が31日の午前9時半からという連絡を受け、月曜に半日仕事の引継ぎをして日本へ向かいました。

羽田空港に夜遅く着き、その日は一泊して、早朝一番の新幹線に乗って、高田駅についたのが9時31分、タクシーでお葬式の式場に入ったのは9時43分ごろでした。もうお葬式の読経が始まっていましたが、一番前の列に私の席が空いていました。

その後、お棺の蓋が取られて、最後の別れ、初めて父の遺体と対面しました。触ってみると冷たい肌がもう生きていないのだと実感させます。それでも穏やかないい顔をしていました。

退院して家に帰ってからは更に寝ている時間が増えてきたそうですが、起きている時は意識もしっかりしていて、亡くなる前の日に生後2ヶ月半のひ孫の見舞いをうけ、思わず手に触ったことを心配して「赤ちゃんは大丈夫か?」と聞いていたそうです。

28日の朝には「苦しい?」と母に書いて問われて、書くものを持って来いと手振して、「早く、赤いのりものにのりたいものだ」と書いて、間もなく自分で両手を拝むように胸の上で合わせ眠りに付き、そのまま午後3時頃呼吸が荒くなり、お医者さんを読んだ時にはすでに呼吸が止まっていたそうです。黒木先生が死亡の確認をされのが3時42分でしたが呼吸が止まったのは3時半くらいと思われます。大往生でした。

父には朝からお迎えの赤い乗り物が見えていたようです。

自然を愛し、家族を愛した父でした。40代から生涯の趣味としたキノコの研究で自分でワープロで打ち、絵を描き、製本した本が数冊、その他、動植物からエッセイまで、本として残してくれました。なんでも修理したり、作ったりするのが好きで、まだ家の中にはあらゆるところに父の面影が残ります。


3人兄弟の中で、若い時から国体に出たり、海外に半放浪の旅に出たり、そしてアメリカに暮らすことになった私が一番心配をかけました。父の存在が私の頑張りの原点でした。アメリカでの就職も毎年帰国出来る事が私なりにたてた条件でした。おかげさまで毎年帰国して来ましたし、安定した良い人生を送れています。あと4年で退職したら私は帰国して日本で暮らすつもりです。

お棺の中には、「これからも、お父さんの子どもとして生きます。そして出来ることなら、またお父さんの子どもとして生まれて来たい。いつか、お父さんと同じお墓に入りますから、また逢えますね。それまでゆっくり休んでいてください」という手紙を入れました。

退職後も家族に囲まれ、趣味に暮らせた父は幸せな人生であったと思います。「93歳でこれほど大勢の弔問客は珍しいです」と言われるほど大勢の人に見送られました。

もう一度、「お父さん、本当にご苦労さんでした、本当に、本当に有難うございました」と言わせてください。残された者が笑顔で幸せな人生を送ることが父への何よりの供養と思います。明日からまた前向きに頑張って生きて行こうと思います。

最後に3年前に近所を散歩中に撮った、私の大好きな笑顔の父と母の写真を貼らせて頂きます。
合掌