国営越後丘陵公園 +エピソード 20

新潟県の中越にある何度かパークゴルフで行ったことのある国営越後丘陵公園に紫陽花を見に行った。長岡市郊外にあり、家からは車で1時間少しかかる。広大な敷地の自然の中に、パークゴルフ場、ピクニックエーリア、スポーツエーリア、子供の遊び場、水遊び、バラ園、アジサイ園などがあり、今はバラがほとんど終わり、紫陽花の真っ最中。紫陽花の原種は日本に自生するガクアジサイである。

カナダのビクトリアを思い起こさせる花の寄せ植えポット

人間界も自然界も最近はままならぬ事が多い世の中である。

温暖化による線状降水帯では今まで経験した事のないような大雨に見舞われ、台風、地震など志願災害も何時起こってもおかしくない状態である。社会が安定しないと人の心も荒んでしまう。

 

安倍元首相が銃殺された。銃社会のアメリカから帰って、銃の無い日本の平和さをアピールしていたのに衝撃的なニュースであった。自分の生活が上手く行かないのを社会のせいにして、他人を巻き込んだ暴挙に出る輩が増える社会。安倍さんの冥福を祈る。

 

先日行った市内の日帰り温泉に七夕の竹があり、短冊がぶら下がっていた。短冊は近くの小学校低学年の児童達が書いたものらしく、ひらがなで子供らしい願い事が書かれていた。その中に目を止めた一枚があった、「おとうさんがいきかえりますように」小さな子供が今から人生のハンディーを背負っている。力強く人生を生きてくれることを祈る事しかできないが、世界の方々でコロナ、戦争に因って親を亡くした子供たちが増えている。民主主義を阻むロシアや中国を世界の価値観のルールを造る国にしてはいけない。

 

コロナもまた感染拡大し始めている。今、世界のほとんどの国ではコロナの為の行動制限が緩和され、「コロナ後」が実行され人々が動き始めている。だが気を付けなければならない事は重症者・死亡者数こそ少ないが何時の間にか日本は一日当たりの感染者数が世界でも最上位に入る国になっているのである。さらには同じ人が複数回感染するケースが増えているが、1回目より2回目、2回目より3回目と繰り返して再感染する事で重篤な後遺症や他の病気の悪化、死亡率が高まるかも知れないというニュースが出ている。

 

変異ウィルスBA.5は感染力が強く免疫をすり抜け、ワクチン効果は減少すると言う。この勢いで感染者が増えれば再び医療崩壊を招きかねない状況であり、急速な行動緩和はすべきではないと思うのである。

新型コロナ (COVID-19) リアルタイム情報 (coronaboard.kr)

 

先日、携帯に挟んでおいたプリペイドの路線バスの乗車バスを落として無くしてしまった。最近はバスに乗る機会も少なく、バランスが2000円を切っていたので、あきらめていたら、すぐ近くの新潟中央警察署から「拾得物として預かっておりますので取りに来てください」と、電話連絡があり、直ぐに行って受け取ってきた。『日本ではほとんどの落し物は帰って来る」という、アメリカでは信じられない神話が本当なんだと実感。まだまだ日本人も捨てた物ではないと、届けてくれた方に感謝、感謝。

 

エピソード 20  

もう半世紀前の70年代初め、中学生の頃から海外を見たかった20代前半の私は初めての海外がヨーロッパへの放浪の旅だった。横浜から船に乗ってソビエトを横断して北欧をヒッチハイクして、ヨーロッパを鉄道のユーレイルパスで移動していた。何度も夜行列車に乗って移動した。頭の中にはその頃はやっていた、かまやつひろしの『どうにかなるさ』という曲が聞こえていた。

「今夜の夜汽車で出てゆく俺だよ、当てなどないけどどうにかなるさ、あり金はたいて切符を買ったよ 、これからどうしよう どうにかなるさ、 見慣れた街の明り 行くなと呼ぶ 、けれどもおんなじ暮らしに疲れて、どこかに行きたいどうにかなるさ、、」名曲である。

 

その後、中近東経由でインドへ陸路移動して日本へと帰路についたが、その頃海外を放浪していたバックパッカーにヨーロッパ人は居たが、東洋人のバックパッカーでは99%が日本人の若者であった。北欧では黒髪が珍しく、有名人並みにもてはやされた良き時代でもあった。

 

その後、90年代になって日本のテレビで放映された「進め!電波少年」の海外放浪の旅番組で脚光を浴びた猿岩石(有吉弘行)、パンヤオ、ドロンズなどを私もアメリカでそのころVHSなどに録画されたテレビ番組を2時間を2ドルほどで貸してくれるビデオレンタル屋さんがあったので借りて観ていた。

 

あの番組を見て感化されて海外に出かけた若者も多かったと思うが、私は彼らのさらに25年も前の70年代の初めにあのような世界放浪の旅を経験をしていたのである。その頃は団体でない海外旅行は冒険であり、まだ私の周りに海外へ行ったことのある人はいなかった。そんな時代の海外旅行はTV番組の様に本当に困ったら助けてもらえる状態ではなかった。ガイドブックと現地で出会った旅行者からの情報で自分の責任と判断で先に進んだ旅であった。毎日が冒険心と好奇心に満ち、様々なところで出会った人達との交流が新鮮で心地よかった。

 

最初の旅から海外の魅力にハマって、その後、アメリカに渡り42年も暮らし38か国を訪れる事になるとはその時はまだ思っても居なかった。アメリカに来て少し暮らしてみて分かったのは、日本では第一次オイルショックで節電が叫ばれ、トイレットペーパーが品不足になっていた時に、エルエーのダウンタウンのビル群には夜中でも煌々と照明が付けられていた。聞けば、「外から見えるので、泥棒除け」とのこと。物があふれるアメリカには圧倒的な豊かさがあり、そこで生活する事はその恩恵を受けることが出来るという事であり、暮らすなら豊かな国が良いと思ったのであった。

 

バイトをしながらの学生でもアパートにはプールが付いていたし、中古の車が買えた。アパートにも車にも日本ではその頃は珍しかったエアコンが付いていたし、何よりも一年中カリフォルニアの青い空が見られるのは気持ちが良かった。70年代のカリフォルニアは大好きなロックの音楽が絶え間なくFMから流れ、毎週位大ヒットする新しい曲が流れてきた。その頃は只、アメリカに少しでも長く居たいと観光ビザから学生ビザを取り、卒業後はその流れで日本に帰るよりはアメリカで就職をしたいと思い、まずは日本レストランで働きながら永住権を取った。

 

永住権を取ってからは、結婚して時代の流れで80年代半ばの日本の経済力に後押しされ仕事にも恵まれ、気が付けば42年も不自由なく異国で暮らせたのは、世界で一番豊かな国で暮らす時代と場所の恩恵を受けることが出来たからであり、移民の国アメリカは移民に寛容であった。元々アメリカ人はアメリカンインデアン以外は全て移民であり、私は先人の築いた勤勉な日本人のイメージに助けられてか、アメリカでは一度も人種差別的な行為は受けたことが無かった。

 

そして、私の場合、50歳代半ばには既に退職したら日本に永住帰国しようと決断していた。それは、「日米両国での帰国の手続き作業は想像以上の気力と体力が必要で、日本に帰るなら70歳までですよ」と言って下さった人が居た事と、退職する年齢に近くなると、親しい友人たちの中にもぼちぼちと日本に帰る人が出て来て、老後の生活を考えたからである。

そのままアメリカで暮らすのは車を運転出来る間は良いが、やがて車を運転できなくなったら、行動範囲が狭くなり、子供のいない私たち夫婦はいつか一人になりアメリカで介護施設に入って、望郷の思いを抱きながら毎日アメ食を食べさせられるのも寂しい老後で嫌だと思ったからである。

 

10年くらいかけての周到な準備の後、66歳で退職して、2017年に日本へ永住帰国できたのはいろんな意味でタイミングもよく、両国の良いとこ取りが出来て、正解であったと思っている。日本に帰ってきた友達、アメリカに残った友達、その他、今でも大勢の友達とインターネットで繋がっている。

私よりも更に前の戦前に満州、南米などに移民として移住していった人達は、凄く苦労された事は今でも語り継がれている。私がアメリカへ移住して暮らした42年間は幸せな最も平和な時代であり、無事に日本へ永住帰国できたのはある種の『移民物語ハッピーエンド』であった。

 

世界を見て来て、コロナ禍後の世界情勢を想うと今世界は再び間違った方向に行きそうで怖い。民主主義の危機を感じる。ロシア、中国、北朝鮮など覇権国家を世界のルーラー・支配者にしてはならない。

人々は独裁者の為に戦うべきではない、独裁者に洗脳されることなく自らの自由を守るために戦うべきである。

70歳を越え、すっかり老人の年齢になった今後は、社会に貢献しつつ、願わくば残りの人生を少しでも長く健康に過ごす事が出来たらと思っている。

 

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