湯沢と妙高でスキー

久しぶりの長編です。

一月中旬、本格的な冬らしくなり、ローカルで滑って備え、待っていたスキーツアーに出発する。今回の主な登場人物はどちらもSさんなので湯沢のSKさんと三島のSMさんと記述する。元々、湯沢で三人で一緒に滑る計画をたて、「私は其のあと赤倉へ行くよ」と言ったら、SMさんも行きたいと言い、SKさんは私らの付き添いで行きたいと言う。

 

45年前にアメリカで出会った親友SMさんと、楽しい性格の持ち主SKさん。SMさんが一歳、SKさんが2歳、どちらも私よりわずかに年上。3人ともアメリカに35年以上暮らし、一緒にマンモスをベースにスキーをしていた仲。9年ほど前にSKさんがまず帰国し、4年前に私、一年前にはSMさんが無事に日本へ永住帰国した。日本で3人が揃うのはこれが2回目になる。気の置けない仲間であり、一番一緒に滑りたい二人なので、赤倉も行けたら楽しいのは判っている。

 

予定では1月15日から湯沢のSKさんの所に3泊して湯沢の石打丸山スキー場で2日間滑り、18日の朝、妙高赤倉観光スキー場へ移動して2泊で3日間滑り、20日に湯沢に戻り、まだ体力が残っていれば21日の午前中滑って解散。コロナ禍でのスキーツアーなので、いろいろコロナ対策は考えている。湯沢で3人集まったらまずは抗原検査をして安心してかってと同じように過ごしたい。

 

新潟県の山間部を含む地方は数日前から大雪に見舞われ、交通規制を受ける道路も出てきた。湯沢へ向け出発の朝まで雪が降っているが、新潟市内は気温は0度以上が多くて湿った雪でほとんど積もっていない。SKさんのマンションは湯沢石打丸山スキー場のすぐふもとにある。途中の道路状態が良ければ2時間すこしで着くはずである。SMさんは三島から新幹線で湯沢に午後1時ごろ着くと言うので、私は道路状態も落ち着くと思える10時少し前に新潟市を出る。

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         道路の右端を示すブルーに色付けられた高速道路

長いスキー旅行であり、湯沢から赤倉は3人分のスキー道具を乗せなければならないので結構荷物が増える。途中、少し速度制限を受けるも、雪に降られる事も無く、2時間半ほどで、湯沢に到着。三島のSMさんは12時58分に新幹線で湯沢に着くので、SKさんに連絡をすると、「既に駅の近くにいるので駅で会いましょう」と言う事になり、直接湯沢駅に向かう。

 

駅でSKさんと会って、しばらくするとSMさんも到着。久しぶりの再会を喜び合い、石打丸山のski in ski out の出来るSKさんのマンションへ着く。まずは、3人安心して密で過ごせるようコロナの抗原検査。少し、ドキドキしたが結果は3人とも陰性。これで安心して3人の時はマスクを外して過ごせる。3時から温泉ではないが大浴場に入り、4時から料理もプロ並みの腕を持つSKさんが美味しいつまみ、食事を作ってくれて宴会が始まる。マンモスのコンドで「いないないバー」と称しSKさんに料理を振るまってもらった日々を思い出す。

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SKさんの作品のほんの一部

そこでSKさんが衝撃の告白。「私、恥ずかしながらこの歳で、去年の暮れに結婚いたしました」という。聞いた瞬間「え?財産目当て?」と言う処だったが、人格者SKさんがそんなことをするわけがない。70代での結婚は、コロナ禍で結婚式はせず、婚姻届けだけ出したそうだが、お相手はSKさんが湯沢でやっている陶芸教室の生徒だった方。「え?生徒さんに手を出したの?」と言う処だったが、人格者のSKさんでもそういう事も有りらしい。老後を互いに支え合って暮らす事にしたと言うから、ともかく、暗い話の多い世間で、新年早々に聞く、おめでたい話。今は奥さんは埼玉の方の家にいるそう。御結婚おめでとうございます。

 

翌朝は晴天。私もSMさんも石打丸山で滑るのは初めて。SKさんの案内で滑り始める、朝の雪質はいい。気持ち良くSKさんを追う。SKさんは去年2度大きな手術をしている。彼の健康、体力を心配していたが全く心配なさそう、それどころか強力に他の二人を先導して引っ張り始める。

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石打丸山スキー場の夜明け

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ゲレンデ沿いに食事処が並ぶ

このスキー場のリフトは短めのが多数ある。それだけコースの種類も多いのだが、滑ったらすぐにリフトで休めるのがいいというSMさんは、暖かい三島に住み、帰国以来3年ぶりのスキーで、今日が初日。明日は、かなりの筋肉痛が予想される。そんな心配を無視するかのように、ガンガン飛ばすSKさん。早々とSMさんが不満を言う。「ちょっと、もっとスローダウンするよう言ってやってよ」「ここはトイレ作戦でいくかね?トイレ行きたくなってきたで、休憩に持ち込む?」SMさんと密談で計画を練る。

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         眼下に米どころ南魚沼の平野が広がる

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              SM さん(左)と私
ゲレンデ上に10軒くらい休憩、食事の出来るお店が並ぶ。居酒屋まであってそれぞれの規模は赤倉より小さめだが、これだけチョイスがあると嬉しい。「今は丁度混んでる時間だから」「もう少し」、「もう少し」と、なかなか休ませてくれないSKさん。「地獄の特訓だぁ」と、ペースの落ちるSMさんを、さらにシゴくSKさん。いろんなお店があるが、週末なので結構混んでいる。選んだのはイタリアンのお店で、パスタとビール。

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SKさん

f:id:skizanmai:20220116112413j:plain午後からは雪は幾分硬いが、今日の天候は悪くはない。これからまだ数日続くスキー、初日から飛ばし過ぎか。

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f:id:skizanmai:20220116092126j:plain部屋に帰って、混む前に大浴場へ。その後、お風呂の前に部屋で外した私の腕時計が無いとひと騒動。思わぬところから出てきた。これで安心して飲めると、ワインの買い出しにマーケットへ行く。今日は鳥鍋。SKさんが自分で作った鳥とサーモンの燻製など、『いないないバー』の再開で居酒屋のようなSKさんの料理が出て来るのでお酒が進む。

 

私の時計騒動に限らず、SMさんも、シャンプーが、眼鏡がどこかに行ったとひと騒動、なくしものを探す時間が増えるのは、老化の兆候か。大概何処からか出て来るから、これもまた受け入れないとね。

 

翌朝、「SMさん、身体の具合はどう?足が痛いでしょう?」と聞くと「全然」「あぁ、SKさんシゴキが足らなかったようですよぅ!」窓の外を見て「きれいな雪景色」心洗われる思いと言うSKさんに「ごしごしと洗わなないとね」と毒づく私。

 

朝から重く湿った雪が降っている。ゲレンデに出ると久しぶりの新雪で挑戦のし甲斐がある。そんなに深い雪でないので上の方は滑り易く、嫌いではない。月曜の今日は、昨日と打って変わった空いたゲレンデ。レストランも今日は空いていて何処でも選び放題。ゲレンデにある「居酒屋」での昼食は1000円でランチ定食にビールがついてくる。ここのスキー場は下に食事の出来る街が無いので、そのぶんゲレンデ沿いに様々なお店がならぶ。

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上に行くほど雪は軽くなり、10cmほどの新雪の中を気持ち良く滑れる。コースの横にはかなりの柔らかな雪が残っている。どんどん滑りたいSKさんと、何とか早く休みたいSMさんとの間で調整役をする私。

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           SMさん、やればできる子です

f:id:skizanmai:20220117094647j:plain2時半にはあがり大浴場へ。今日は週末も終わり、大浴場も我々を入れて6名とガラガラ、、、と思ってサウナに入ろうとしたら、入浴客がほぼ全て狭いサウナに集まっていて、サウナからは早々に退散。今夜も斎藤さんが美味しい食事を作ってくれる。美味い酒、気の置けない友人、最高の組み合わせ。先日やっと世間並みに電話をスマホに買い替えたSKさんはラインをセットして文明人の仲間入りする為に奮闘中。

 

18日の朝7時、湯沢から赤倉に向けて出発。外は猛吹雪。30cmほどの雪に埋もれた車を掘り出し、出発。視界も良くない。高田から妙高までは雪の為、高速が閉鎖されていて、下の道を行く。新井の道の駅はまだ開いていなくて、唯一開いていた「すき屋」で少し早い昼食をとる。晴れていたら3時間かからない距離を5時間半かかって妙高の金甚に着いたのは12時半。金子さんが待っていてくれて、手配していただいた格安の3日分スキーチケットを受け取りゲレンデへ。集合時間は1時から、1時半に変更になったと聞いて、なんとか間に合いそう。

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f:id:skizanmai:20220118074529j:plainゴンドラで上がり、エーテルで地元の仲間と合流。高校の同級生が中心のスキー仲間で、今日はH君夫妻と、K君、ゲストのM医師の顔ぶれ。金甚の金子プロにレッスンを受ける。レッスンは順番に滑りながらゆっくりとしたSMさんにもいいペース。今回のテーマは姿勢を低く外脚100%で入るターン。昨シーズンのレッスンを思い出し、さらに新しいレッスンを受ける。後でI君も加わる。

 

夕飯前に、距離を置いて、話す時はマスクをして、寒くても窓を少し開けて換気に努める、という条件の元、一番大きな部屋である我々3人の部屋でウェルカムドリンクと乾杯。陶芸、スキー、料理、アートと何でもプロのように器用にこなすダジャレのSKさんのマンモスでのBBQ用の肉を熊に食べられてしまった話。そういえばSMさんはマンモスでドア越しに熊と押しくらまんじゅうをしている。

 

SM さんはスキーでたまたまリフトで同席しただけの知らないアメリカ人を夕食に呼んで、私が日本食を料理してご馳走したことが何度もある。SMさんは外人受けが良く、スイスで会ったホテルやバーのオーナーに気に入れられ、以降のドリンクが無料になり仕事後の従業員の飲み会にまで招待された話。痛風がでても、松葉杖を突きながらメキシコのリゾート地にいったら航空会社、ホテルでVIP待遇を受けた話などなど。

 

我々の酒の上の失敗談から成功談まで、世界中での楽しい思い出の一部を披露して、驚かれるやら、呆れられるやら。今回は、私の用意できる最強メンバーの中からの二人であり、私が上手く寸胴鍋で煮込んで、かき混ぜて二人のいい味を出してあげるのですから、驚かれて当然でしょう。

 

翌19日は朝から快晴。朝日が妙高に当たり、SMさんは初めて目の前に観る妙高の姿を拝む。朝食時、「昨夜はうちのお年寄り連中が節操も無く酔っぱらって失礼がありましたら申し訳ありませんでした」と皆さんに謝ると、「皆さん、凄い人たちですね」と称賛(?)の嵐。とうぜん「あなたが一番酔っぱらっていたでしょうが」と先輩方からは非難の嵐。

先輩諸氏にも失礼いたしました、、かも。

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朝食の後、金子さんの入れたコーヒーをいただいてからスキーの準備

今日はホテル金甚に泊まったプロスキーヤー岡部哲也、丸山貴雄プロが、金甚のオーナーでありもとデモンストレーターの金子裕之さんと朝からSKITV用のビデオ撮りをすると言うので見学に行く。朝のコンデションは、私が日本に帰国して一番の雪と青空のスキー日和。目の前の新雪の斜面をすっ飛んでいき、更に高速ショートターンでショーオフするプロスキーヤー達。いいものを見せて頂きました。

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岡部プロが滑っているのですが、小さくしか撮れていない

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              撮影隊の皆さん

もともと我々のレッスンの予定が先にあったので、撮影終了後、プロの皆さんに「金子さんをお貸しして頂き有難うございます」と言われた。そして、11時から金子さんのレッスン。12時過ぎにランチを食べながら、アメリカにいるスキーヤーで友人のKさんにラインで挨拶。

午後からまた2時間近いレッスン。金子さんレベルのスキーレッスンを受ける機会はめったになく、誰もが経験出来る事ではない。イタリアスキーツアーで会った新潟市からのスキーヤー達と私も一緒に飲む機会のあった有名な海和俊宏プロとも交流のある金子さんとは、H君が長い付き合いで、我々はかなりの特別優遇を受けている。

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             金子さんのレッスン

今日は一番人気の第三リフトが停まってしまった。我々が乗っている時でなくて良かった。暫くして、ゆっくりと動き出したが、翌日も完全停止だった。

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エートルでランチ

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集合写真撮影

お風呂にはいり、夕食前後、今日も、寒くても換気をしっかりやり、話す時はマスク、を徹底して大部屋で乾杯。夜9時ごろから金子さんに招待されて、談話室モンブランで密にならない様に飲み会。

 

赤倉最後の日は、10時から金子さんが一緒に滑ってくれる。今朝は、ふわふわの『ザ・深雪!』という雪で、こんなふわふわの雪を滑れる機会はめったない。SMさんは3年ぶりで、今回が初滑りであり、5日間の連続滑りは堪えている。「もうマンモスの一年分を滑ったよね」というSMさんはマンモスには滑りに行くより飲みに行っていた方。さすがに五日連続は疲れるのも無理はなく、大人しい。参ったタヌキは目で判る、参ったSさん目で判ると、もう休みたい『休ませろ~ぅ』と、私に目で訴えてくる。「それではこれで、解散しますと」言われた時は一番元気になって、解き放されたポチのように駐車場へと降りていく。

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       金子さんが一緒に滑ってくれた

駐車場で、皆さんに、一緒に滑らせていただいたお礼を述べて、雪道を走り、湯沢に戻る。途中、今月2日に100歳になった、私の母親に顔を見せに高田の実家に数分間寄る。湯沢への道はほとんど雪道。無事に夕方まだ明るい内に湯沢のSKさんのマンションへ戻った。

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             雪の高田城の櫓層

最終日、今朝も湯沢の外はかなりの大雪。佐野さんはもう滑らないと言うが、私は目の前に雪とゲレンデがあるのに滑らないチョイスはない。シーズンチケットを持つSKさんが付き合ってくれて、ゲレンデにでる。深雪に入ると動けないほど湯沢の雪は赤倉に比べると重く湿っているのが実感できる。雪が降ったり、上がったり。時たま風が止むが、視界も悪く厳しい豪雪の中のスキー。2時間ほどのスキーで、11時に上がり。荷物を整理して、湯沢駅前でヘギそばをたべ、SMさんを駅に見送る。「楽しかったね、またね!」

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ヘギそば屋さんで

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SKさんをマンションにおろし、私は一人、雪の中を新潟市に帰る。長岡まではまた猛烈に雪が降っていた。

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世間離れした数日間を過ごしていたが、この一週間で、更にオミクロンの感染は広がり、日本中は大変な事になっていた。オミクロンは風邪ではない。甘く見ないで、来月の赤倉行はキャンセルして、しばらくは新潟市近郊のスキー行きで過ごすつもりである。3度目のワクチン接種まで、気をひき締めて過ごし、またの再会が出来るよう願い、一週間の楽しかった今回の雪国の物語はこれで終了です。

 

WEBサイト: スキー三昧 イン カリフォルニアスキー三昧 (skizanmai.com)

で2012年以前のスキーエッセイがご覧になれます。

 

スキーシーズン到来 + エピソード14

新年明けましておめでとうございます。やっとスキーシーズンが始まります。

 

今季の雪は変わりやすい天候で薄っすらと積もってはすぐに消える。雪が積もらず新潟下越地方ではスキー場がなかなかオープンしなかった。1月2日にやっと胎内スキー場がオープンしたと聞き、急遽3日に初滑りに行く。それにしても新潟市の天候はうんざりするほど曇りの日が多く、とりわけ冬季はカリフォルニアの青空が懐かしい。

我が家から1時間15分ほどで胎内スキー場の雪山に着く。

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今年の一月はコロナ禍ながら、スキーでは忙しい予定を立てている。コロナが極端に広がらなければ1月は15日から湯沢、赤倉と梯子スキーで旧友と6泊の予定があり、今回はその為のスキー用の身体の慣らし運転でもある。2日の胎内まだ全面オープンでなかったので、シニアは4時間券でなんと1500円であった。4時間はシーズン初めには充分な時間である。

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今日の雪はまあ~まあ~のコンデション。去年の滑りを思い出しながらの、筋トレ的なスキーになる。小雪が舞い始める。

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帰りに駐車場を出てすぐ、道路を横切る二匹の猿を見た。奥胎内では何度か見たことがあるが、私の故郷上越では、昔は居たそうだが私は見たことはなかった。そういえば昔、高田公園の中に動物が飼育されていて、日本猿や、今年の干支であるトラのつがいも居た。

 

10分の寄り道で、温泉、『塩の湯』で温まって帰る。我が家のお風呂は年末に栓が壊れてお湯を溜めれなくなり、27日に業者に連絡したら部品が入らず、修理は年が明けてからの6日と言われた。その為、年末年始はお湯につかれずシャワーだけ。寒い日はやはりお風呂が良い。久しぶりの温泉に浸かる。塩の湯は熱い温泉として有名で、42度くらいあり、入る時はかなり熱いが、入ってしまうと気持ちがいい。実はこの温泉、奥の方にさらにマニア向けの45度くらいの極熱温泉がある。前回トライしたが諦めた。今回はトライもしていない。

 

2日間空けて5日にまた胎内にいく。朝から雪が降っていて、スキー場に近づくに連れ、先日とは違った本格的な冬の風景になる。昨夜20cmほど積もったようで、降りたての雪質はかなり良い。そして、昨日まで筋肉痛で歩く事もままならぬ状態だったのに雪が良いと頑張って筋肉痛を忘れて気持ち良く滑れた。遠征前の、来週もう一度滑っておきたい。

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今やマスクはマスト

2月もスキーのお誘いが入ってきているが、新潟にもオミクロンが入り始めておるので、寸前まで様子見をしながら最終的に決めて行こうと思っている。

 

1月10日、3回目の胎内へ。15日から湯沢、赤倉への遠征計画があるので、身体を慣らしておきたい。パッとしない天候が続く日々の合間の晴天の一日。今日は成人の日の連休の最終日。チケット売り場に着くと、物凄く長い列。チケットを買うのに1時間くらいかかりそうで、係員に教えてもらい、穴場であるもう一つのチケット売り場のある鹿ノ俣ロッジに廻ってみたらすぐに購入できた。

天候はいいが、昨日の暖かさで溶けた雪が夜の間に凍結して、朝のうちは何処もがりがりのゲレンデ。それでも青空の元でのスキーは気分が良い。4時間滑って帰宅。

湯沢にいるSさんと電話で打ち合わせ。「湯沢周辺のスキー場ではどのように感染防止策をしてますか?」と聞いたら「リフトに乗る前に一回ごとにPCR検査をしております」と突っ込みどころ満載。相変わらずのダジャレ、冗談好きなSさん、再会が楽しみ。15日からは騙されませんぞ。

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メインロッジのチケット売り場は長蛇の列

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一番奥の風倉高原第一リフトもオープン

    今回も濃厚接触者はいない。15日からの遠征では、宿泊、食事、リフトと密になる場面も考えられる。マスク、消毒は勿論、出来るだけ密を避け、換気のいい状態で、注意深く楽しみたいと思う。                                                                                                                     

Episode 14

私の働いたアメリカの会社はコンテナで輸入するアメリカの大手小売店, ブランドメーカーの顧客を数多く持っ物流会社であり、ロサンジェルス・ロングビーチ港を合わせたアメリカ最大の港湾で20%以上のコンテナ輸送のシェアを持ち、数か所の物流倉庫と税関の検査場なども運営する会社であった。その中で私の一番の強みはアメリカのロジェステックに精通し、会社は他会社ではハンドルできないフラットラックなど特殊コンテナに載ったオーバーサイズの荷物のハンドルもでき、アメリカ西海岸のオフドックとしては最大の規模と設備を持つ会社で働いていた事であった。

 

会社の中でも私が居た施設は一番大きく、端から端まで1.5キロもあり、常に一日4000台くらいのコンテナやトラックの出入りがあった。

 

私のInternational Marketingの主な仕事は、プラント物のハンドリングであり、見積もりからコンテナの輸送、トラックへの詰め換え、全米への輸送迄、どんなカーゴでも一手に引き受けられ、アメリカサイドの輸送上の規則、コンテナへの固定作業などに精通し、日本系の商社、メーカー、ロジェステック会社の駐在員、現地社員に頼りにされ、様々なプロジェクトや特殊カーゴの動かしにかかわる事であった。

 

1980年代は輸入はパイプラインプロジェクトやアメリカ最初のCDの製造工場、半導体、家電メーカー、日系自動車工場、など様々な日系メーカがアメリカ国内や保税の効くメキシコ国境に工場を持つための生産ラインの設備を日本から送り込んで来た。その他、特殊なものではロス・オリンピックの公式CFSとして世界中からオリンピックに使う器具機材を受けた事、梱包を開けたら出てきた禁制の本物の2頭のトラのはく製、一大ブームとなった風力発電機、ロスアンジェルス交通局のメトロラインの車両の輸送、スペースシャトルの燃料タンク、など関わった思い出は多い。

 

輸出では東京ディズニーランド、大阪ユニバーサルスタジオ、日本、台湾への軍事車両、防衛設備、農産物、トヨタの博物館へ送る100台ものビンテージカー、予定通り届かないと紅白歌合戦がハイビジョン放送できなくなると言われた日本最初のハイビジョン中継車、などの多彩な荷物のアメリカサイドのロジスティックに関わった。毎日違う荷が動き、実物を見ずに書類上で動かす人の多い業界で、私の場合、営業から、輸送、トランスロードまで総括する立場であり、そのほとんどを事務所の外の作業現場のヤードに出れば実際にその荷物を見ることが出来たので面白い仕事であった。

 

90年代からは日系会社でもどんどん従業員の現地化が進み、西海岸に上がるカーゴの80%近くが日本絡みであったモノの流れはやがて韓国・台湾へ、そして2000年代には中国へと更に広く日本以外の他のアジアの諸国へと移っていき、雑貨類の輸入国では中国が圧倒的になっていった。しかし、私が退職する時まではまだ生産設備機械の性能は日本製がすぐれており、プラントプロジェクトは続いていており、アメリカでの韓国車も日本製の精密機械で製造されていたのである。

 

面白い時代に、面白いポジションで仕事が出来たのは恵まれた事であった。また、いい時代にいい場所で楽しい人生を過ごせたのは、それを許した両親と、周りの仕事仲間、縁あった友達・知人のおかげと感謝している。

 

今週のミーちゃん

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Merry Christmas +エピソード13

12月も後半となり、後10日ほどで新年を迎えます。2021年はコロナ禍で世界中が大変な一年でした。オリンピックが開催されましたが、いまいち盛り上がりに欠けたまま終わり、すっかり過去の出来事となっています。そして政治的にも世界では民主主義的価値が大きく損なわれ、一部の国では独裁者が国民を押さえつけ洗脳するような覇権的かつ強権的統治が強まっている様に思います。

2022年が少しでも明るい年になるようと想いを込めて、年賀状に代わり、このブログ上で皆様に新年の挨拶に代えさせていただきます。

 

いつもの3人のメンバーで寺泊の住吉屋に一泊の忘年会に行く。少し寒い天候で日本海は曇り空の下で波高し。新潟県では新発田と長岡の小学校でクラスターが発生している。新潟市では感染者は出ていなかったが15日に一人。今日の宿は満室だそうで、見たところ、皆県内からの客のようで、まだコロナも安心かと思う。

宿は寺泊漁港が目の前というロケーションにあり、寺泊漁協の「地元海鮮のセリ権」を持っているため、新鮮素材の提供が出来る宿で私はこれで3度目の宿泊になる。今回は新潟県民割引で半額の6100円になり更に2000円の買い物に使えるクーポンが貰える。そしてチェックインの際ライン登録すると一人一杯のお酒のサービスがあり、夕食時に熱燗3本を頂く。

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何度も行っている寺泊なので今回は観光も無く、ひたすらお酒と温泉と料理を楽しむ忘年会。

 

温泉に入って夕食の宴に。カニが一パイずつと海鮮を中心にしたテーブルいっぱいの料理の数々。これで実質4100円は申し訳ないほど安い値段。宿内でもマスクはマスト。食事、温泉に部屋を出る時、つい忘れて出て、取りに戻るのは皆さん同じですね。

帰りがけに寺泊まりの魚市場で、宿で頂いた2000円分のクーポンを使って大きなズワイガニを買って帰る。

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新潟市にも、冬将軍が訪れ、10cmの積雪があった日、雪を踏みつけ散歩にいく。スキーのシーズンももうすぐ。

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エピソード 13

ロックが好きだったので、エルエーで1970年代中頃から80年代の有名ミュージシャンのコンサートにはほとんど行っていた。ベバリーヒルスに隣接したヤマトレストランでは客としてくる大勢の映画スターのプライベートの姿を見る機会があったが、その他、アメリカで偶然遭遇した素顔のスター達は、確信の持てるケースから、確信の持てない遭遇まで、こんなことがあった。

 

70年代後半、明け方のサンタモニカフリーウエーを走っていたら、隣の車線をロールスロイスが追い越していった。見るとモハメット・アリ(カシアス・クレイ)が運転していた。これは見間違うはずの無い顔と、そのころすでにパンチドランカーの症状が出ていると言われていたので、何か所かぶつかってへこんだ痕のある高級車ロールスロイスの組み合わせは伝説のボクサー、モハメット・アリ以外考えられないので100%本人であったと思っている。

また同じころ、ロス郊外のビックベアからの帰り道、キャンピングカーとすれ違ったが、その車を運転していた人が西部劇の大スター、ジョンウェインであったと思う。まさに『駅馬車』を操る映画の中の、ジョンウエンと同じ顔をしてカーボーイハットをかぶっていたので、こちらは本物度50%の確率か。 

 

ジェフベックをウエストハリウッドのマーケットで観たこともあった。これはロック好きの友人が確認したので90%。

 

日本人のオーナーシェフが経営するフレンチレストラ、シェフ・サトウで隣の席にショー・小杉一家が座っていた。私より数年先に私と同じように片道航空券で単身渡米して、スタントマンからスタートして、その頃既に忍者俳優としてブレイクして、いくつかの映画で主演して100万ドルスターの仲間入りを果して、アメリカン・ドリームを実現した俳優であることを知っていたので、食後、「ショー・コスギさんですよね。映画を見て同じアメリカで暮らす日本人として、これからも活躍されますよう応援しております」と、挨拶をすると、武道家らしく丁寧に対応して下さった。小学生くらいであったケイン・コスギ、シェイン・コスギの兄弟は椅子から立ち上がって挨拶をしてくれた。

ケイン・コスギはその後、日本で活躍する事になる。

 

先日亡くなった神田沙也加さんは、今から20年前、中学1年生から2年生の時、アメリカの国際学園と言う全日制の日本学校で約一年間、うちの家内の教え子だった。いろんな事情で8回も転校を繰り返していたと言う沙也加ちゃんは、その頃、松田聖子さんの2番目の結婚相手、UCLAに留学研修をしていた歯科医の波多野さんと一緒に暮らし、時たま母親の聖子さんが日本から訪れ、彼女も頻繁に日本に帰っていたと言う。普通の大人しい子だったというが、その夏休みに、アメリカで俳優としてのデビューをしていた。

https://bunshun.jp/articles/-/50866?page=1

冥福を祈り、合掌

今週のミーちゃん

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ミーちゃんが我が家の一員になって1年、1歳2か月の人間で言えば成人になりましたが相変わらずの甘えん坊です。

ワインを楽しむ+ エピソード12

今日9日は私の故郷、上越にある「岩の原ワインを楽しむ会」の開かれる日であった。コロナの状況に依っては中止されるイベントであったが、最近の状況を鑑み、無事に開催された。

同級生のS君が世話役を務めている事もあり、帰国以来毎年参加している。ホテルでのフルコースのディナーとワイン。最近はドレスアップして出かける事も少ないので嬉しい催しであった。

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エピソード 12

今年の12月8日は80年目の開戦記念日であった。アメリカでは12月7日がパールハーバー・ディーである。8日にNHKで真珠湾攻撃のドキュメントをやっていた。あの日、5隻の小型潜水艦が自爆した。それぞれに2名の軍人が乗っており、その時に亡くなった9名は最初の戦死者として9軍神と崇められた。そして、一人の若者が生き残り、最初の捕虜となったが、居なかった人として歴史上から消された。

 

「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を受けていた藤巻さんは「日本には帰れない、殺してくれ」と、望んだが、その時、名護という僧侶に出会った。この方は、真珠湾攻撃の30年前、日露戦争でロシアの捕虜になり、3年後に無事に日本に帰るとすぐに出家してハワイへ移住した方であった。「生かされているのは、生きるべき理由があるからだ。命を粗末にしてはならない」と諭された藤巻さんは段々と考えが変わって行き、ロスに移送されてからは同じ境遇の方たちを救う事に尽力し、アメリカで捕虜となったほとんどの人達が藤巻さんにお世話になり、救われたと、言う存在になった。戦後、日本に帰国して、トヨタ自動車に入り、英語力を生かし、アメリカにクルマを売り込む仕事をされ、その後ブラジルトヨタの社長を務め、1999年になくなられたそうだ。

 

さて、アメリカのハワイ、ロスなど日系人の多い処には西本願寺、東本願寺の別院などがあり、現地の人の心の支えとなって来た歴史がある。そこの僧侶は日本から派遣されていた。

学生の時アルバイトをしていたヤマト・レストランには多くの学生が働いていた。その中にハワイのお寺からUCLAに勉強に来ていた若い僧侶がいた。名前を忘れてしまったが、ヤマトでフロントをしていて、何度か私のハリウッドのアパートでマージャンをした仲であった。マージャンが強く、我々はそんな僧侶らしからぬ彼を嫌味と親しみを込めて「生臭坊主」と呼んでいたが、人間的にはとても魅力的な人物であった。元気ならば今はハワイか日本のお寺で僧侶をしているはずであるが、生臭坊主さんも私と同じ場面を思い出してどこかでほくそ笑んでいる事だろう。

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ミーちゃん、被り覆面、気に入らないご様子

web site:     スキー三昧 イン カリフォルニアスキー三昧 (skizanmai.com)

富士山ろくで子犬鳴く+エピソード 11

日本では10月から急速にコロナ感染者数がへり、世界的に見ても専門家も納得できる説明ができ出来ないと言う状況であるが、感染者減少というその事実だけを見れば、幸運であり、嬉しい事である。

しかし、南アフリカで新型異変株「オミクロン」が確認され、「懸念される変異株」としてデルタ株などに比べ再感染力が強く、世界中で感染増加の警戒すべき状況が始まっている。いくら水際対策を強化しても、デルタ株同様に、日本に入ってくるのは時間の問題で、新しい対策、ワクチンが開発されるまでの時間稼ぎだと言う。

 

それでも12月初め現在、まだ日本のコロナ感染状況は少なく、今までになく安全な状況に思える。新たな変異株が入ってきたら次のチャンスは何時になるか判らない。出かけるなら今と久しぶりの県外、静岡の友人のところへの旅行を決めた。

 

静岡県三島の駅に降りると、45年前の渡米早々に出会い、長きに渡り途絶えることなく一緒に過ごし、私より3年遅れで昨年アメリカから永住帰国したSさん、Sさんのお兄さん、そしてYさんと懐かしい顔ぶれが待っていてくれた。Sさんの幼馴染Yさんはアメリカに何度も来ていたし、お兄さんも6年前の退職後、アメリカに長期滞在したことがあったので、いずれも気心の知れた仲。

 

静岡県は中央に県庁所在地静岡市、その西には浜松、この2市が大きく、県の東部に位置する三島は、思ったより大きな街であるが、隣の沼津市はさらに大きく、それでも西部の浜松市には及ばず。県央の静岡市を挟んで東西の静岡県人は互いに腹に一物をもって接していると聞いたことがあるが、所詮は子犬の遠吠え。

帰宅後、調べたら静岡の県民性を表す面白い記述があった。

『東西に長い静岡県はもともと、伊豆、駿河、遠江(遠州)の3つの国から成った県で、三者三様の県民性がある。また、日本の東西の分岐点でもあるので、電気の周波数から、食文化まで静岡県内でもきっぱりと分かれるのが特徴。西日本、東日本どちらの性質も受け入れられる柔軟性を持ち合わせている。 また、いざ食えなくなったら、中部の駿河は優柔不断で、とりあえず人に乞うてしのぐ「駿河の物乞い」、西部の遠江は気性が荒く経済感覚がシビアなので「遠州泥棒」、東部の伊豆は何もできない「伊豆の餓死」と、性格を揶揄された』

念のため、三島は東部である。

 

宿の窓の目の前に日本の象徴富士山が姿を現す。昔からいろんな思いでこの山を見てきた人が居ると思うと感無量。その昔、富士山を見ながら歩いて東海道を行き来した人。戦時中、この祖国を守るため、富士山に見送られ、戦いに行った人。

三島は富士山からの地下水が溢れる水の郷。街中には多くの湧き水と、清流が流れ、紅葉の残る川沿いの散歩コースが良かった。

 

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珍しいカワセミ

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三島は水鳥の宝庫でもある

御殿場の宿の外にはクリスマスのライティングがなされ、食べ放題、飲み放題のプランで、クラフトビールが6種類もあり自分で注ぎ放題。Yさんが作ったと言う9杯の記録を私が破った処までは数えていたが、その後は判らず。

とりわけ長年の友であるSさんとは話が尽きない、私の人生で一番一緒にお酒を飲んだ人であり、40数年の長きにわたる、スキー、旅行、酒の上での失敗談、懐かしく、楽しい時間がアッと言うまに過ぎる。まだまだ門外不出の話が有るのだが、それはまた次の機会に。

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すっかりお世話になった楽しい数日間でした。有難うございました。コロナが収まったら、また富士山を見に行きます。

 

エピソード 11

冒険をする若者にも何度もあった。若い時に放浪の旅をした時にはヨーロッパでアフリカのコンゴ川をゴムボートで下りに行くという人に会った、その結果をアメリカであった旅人に「途中でリタイヤ」と聞いた。冒険をするには大胆さが必要だが、私は注意深く進む性格なので、初めて海外へ行った時から危険を伴う本物の冒険は出来なかった。中近東でも比較的治安が良いと言われたメインルートから外れなかったし安全意識を常に心掛けた。

インドからネパールに向かう時にその頃鎖国をしていたブータンへのかなり具体的な密入国の話が有った。もし、行っていれば、ブータンへ入った数少ない最初の日本人に成れたはずである。

 

私のいた会社の施設にコンテナの混載で着いた自転車を取りに来たこれから自転車で世界一周をすると言う若者がいた。彼の個人荷物を受け取るための手続きに私の名前を誰かかから聞いたと連絡を受けたので、いろいろと面倒をみてあげ、昼ご飯をご馳走してあげた。食事をしながら私がかってヨーロッパで経験した話や、放浪の旅の心構えのような事を話してあげた。

 

2年後、オーストラリアのバースからはがきが来た。「最終目的地であったオーストラリアのバースにゴールインいたしました。途中で盗難や体調を崩したり、いろいろありましたが、無事にゴールインできたのは旅の初めに小堺さんにお会いできてお話を伺えたことが大きな励みになりました。これから愛車を日本へ送り、帰国致します。有難うございました」と、あった。私は彼に「旅でお世話になった人には恩返しができないが、その自分が受けた恩は、何時かで他の人に返してあげて下さい。それを心掛けたら、必ず楽しい旅が出来るでしょう」と言っていた。

 

ハリウッドサインのあるグリフィススパークで日本人の旅行者に出会った事がある。 夏のグリフィスパーク天文台は夜景のきれいな観光スポットであるが、昼間は連絡のバスがあるが夜になると車で訪れる人は多いが帰りの便がなくなる。彼は終便を逃して困っている様子。何故かいつもそいう人を私は見つけてしまう。夜間に山の下のバス停まで歩いて、そこから便数の少ないバスを待って夜中に帰るのは危険である。困っている彼に話しかけた私は彼をハリウッドの宿まで送ってあげた。

一日一善は母の教え、せめて一週一善くらいはやってきたつもりである。先日、母は少ない年金からもう何年も「国境のない医師団」へ寄付を続けていると知った。100歳になる母の前では、私はまだまだ未熟な子犬であり、ひよっこである。

 

今週のミーちゃん、我が家に来て1年になりました。

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箱や袋があれば、入りたがります

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村上瀬波温泉+エピソード10

我々が温泉に行く予定をたてるとコロナの感染が減ってくれる。今回は日本だけ奇跡的に激減している。今月に入り新潟県では0の日が続き、たまに感染者がでても2~3人。東京も30人以下の日々。この機会に村上市の瀬波温泉へいつもの3人で行く。村上市はO君がかって支店長をしていたことのある地で、予定を立てる間に村上市の旧友が是非一緒に夕飯をという事になったと連絡があった。大観荘に夕飯だけの予約を取ろうとしたら、県と市から援助が出るので日帰りより泊った方が安いと言うので、村上の3名も泊る事になった。 

 

お酒大好きのO君の友達は只ものではなかった、だって宿でこれから夕食がでるのに、刺身の盛り合わせを持って来た人は初めてみた。「地元の漁港から買って来たから間違いなくホテルの夕食に出る刺身より美味しいですよ」という、大瀧はいつもの様にフロントで「お酒の、持ち込みをしたいんですが?」と聞いたら「1本くらならいいですよ」と持込み料を取らないという。前回もそうだったが、本当に新潟の人は商売っ気が無い。しかし実際は一本どころか4本の日本酒が持ち込まれていた「一本づづテーブルに置いてたら判らないよ」とのこと。村上の皆さんは全員市役所で働いていた人たちと聞いたが、ええのかい?彼らの 部屋は行き来しやすい隣の部屋 。夕食は6時からで、我々6人には食事は個室を用意してくれた。

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これはまだ夕食前の宴

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見た事も聞いた事も無い持ち込みの刺身盛り合わせ

そんなわけで、温泉に入って4時半ごろから彼らの部屋で飲み始める。村上は昔からの鮭の産地。村上藩はここの三面川で世界で初めて鮭の人口ふ化に成功した。鮭は大きくなって生まれた川に戻ってくるが、実は本当に美味しいのは川に上がって体力を使う前の海で獲った鮭だそうで、持って来てくれたのはそんな鮭から手造りした鮭の酒びたしなど。Sさんは地元の鮭道場で人達に塩引き鮭の作り方の講師をしているそうで素人ではない。彼の作ったお酒に浸して食べる乾燥鮭「鮭の酒びたし」は地元のお店で売っている以上の高級品で絶品でした。

6時から宿の夕食の本番なのに、すでに前宴会でかなり出来あがっている。

村上はいろんな産物が採れる、宿の食事は豊富な地元の食材づくし。楽しい会話と美味しい料理を頂きました。これで県民対象の割引を使って、更に2000円分のクーポンを貰うと5000円そこそこで2食付き一泊。

ここは海に沈む夕日が売り物の海辺の宿であるが生憎の雨空であった。夕食後も部屋に戻って宴会の第三波は続いた。

 

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目の前に粟島が微かにみえる

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こちらが本番の酒宴の席

翌日、村上市内の老舗「千年鮭きっかわ」へ行く。お店であり、観光地でもあるが、O君と店内の吉永小百合さんの大きなポスターの写真を撮っていたら、吉永さんと出会った風にという我々の企てに気づいた客のおばさんに大笑いされてしまった。

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鮭の博物館であるイヨボヤ会館では鮭の獲れる三面川の底に行く通路があり、ガラス越しに実際に遡上する鮭の姿を見ることが出来る。

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小雨の中を村上市街地東端にそびえる臥牛山(標高135メートル)の頂に築城され、歴代の村上藩主の居城であった村上城址に上る。ここからは海まで続く市内が一望できる。

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エピソード10

ユーラシア放浪の旅から戻り、大学を出ても、就職しないでまた海外へ出た私は、世間的には一般的なレールから外れたドロップアウトの人生のスタートであった。2度目の渡航はもともと夢を追ってのチャレンジであったので、気持ち的には何時か社会に戻ると言う決意と余裕があったように思う。その後、それはアメリカで永住権を取り正式に働くことが出来るようになれば生活の基盤を築けると言う確信のようなものとなった。実際その頃はJapan as #1と言われた日本の国力が伸びていた時代で、アメリカでは日本人が重宝される需要があり、アメリカン サクセスのようなチャンスがいっぱい転がっていた時代であった様に思う。

結局29歳までのアメリカでの生活は旅行と学生とアメリカ永住権を取るための日本レストランでの仕事で遠回りの人生を過ごしていたが、永住権を取ってからが、本当の社会人としての出発であり、ドロップアウトからいっきにカムバックして行くことになる。

最初は日系の専門商社で1年ほど勤め、もっと良い仕事を探していた時に、そのころ先に通関業務の会社で働いていた親友Sさんが、「アメリカの物流会社が日本人を探しているよ」という情報をくれて、面接を受けて採用となった。そこが私が36年間働く場所となったロサンジェルス・ロングビーチ港でも物流の大手であったCalifornia Cartage Companyであった。(現 NFI CalCartage) 

アメリカの会社であったが、その時、私を面接して採用してくれた直接のボスとなり、お世話になったのが日本人のCさん。Cさんは日本で学生運動で捕まって裁判で「父親のアメリカ赴任に付いていけば無罪釈放」という条件を出され、船会社の駐在員であった父親のもとに送られアメリカに来たと言う経歴の持ち主であり、凄く仕事の出来る人であった。私はCさんに教えられ、鍛えられ、その後の物流業界でのキャリアをスタートさせた。

 

これは私にとってはその後のチャンスを与えられた幸運なスタートであった。しかし、アメリカでは職を得た後、自分が会社で必要とされるポジションに付いて初めて安定した職に就いたと認められるのであり、それまでが大変なのです。(だから小室圭さんはこれからが真価を問われる場であり評価されるのはこれからだと私は言い続けているのです)私は幸運にも、80年代から90年代は様々な日本の会社がアメリカに進出してきた時期で、そのアメリカサイドの物流にかかわることができた。Cさんは私が入社して6年くらいで退社され、以降は社長が私の直接の上司として退職まで仕事を続ける事が出来た。

 

人との出会いに恵まれて、いろんな人に助けられた私の人生は、若い時に旅に出た時から一期一会の人との出会いを大切にしてきたおかげかと思う。

 

今週のミーちゃん

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帰郷+エピソード9

コロナ禍で、なかなか帰郷出来ないでいる人が多い。とりわけお年寄りのいる家庭はそうだと思う。10月に入り、コロナの感染は劇的に減っている。新しい異変株ミューのニュースもあるし、第六波が来ることはワクチン接種の進んだ他国を見ても間違いない事だと言う。人が動けばコロナも動くと言う原則は変わらない。

10月下旬、母の100歳の祝いに上越の実家に帰郷した。千葉から合流する弟と共に安心の為、事前にPCR検査を受けた。今、PCR検査はドラッグストアで検査キットを購入して、唾液を採取して送れば誰でも出来る。その費用は1万4千円ほど。送って3~4日で結果がe-メールで送られて来る。PCR検査は自分の為でもあるが、ワクチン接種と同様に自分の周りの大切な人たちを守る為でもある。

二人とも結果は低リスク。唾液内のウィルス数が少な過ぎて結果が異なる可能性が無い事も無いので、そういう表現なのだそうである。

実家に帰る前に高田の寺町にある称念寺に寄り、小学校5年、6年の時の恩師に挨拶に伺った。2年ほど前に帰国の報告を電話でして以来で実際にお会いするのは60年ぶりとずいぶんのご無沙汰。先生は退職後、今はお寺の住職をされているが、もともとは私の父親の付属での教え子で私は父の教え子の教え子と言うことになる。放課後に一緒に遊んでくれた思い出深い先生。称念寺は1327年創建の由緒ある古寺で先生は48代目の住職でお寺にある木造彫刻は運慶の流れをくむ県内唯一の貴重なもので国の重要文化財に指定されていると今回初めて知った。

久しぶりに母と兄夫婦と出前のお寿司を食べながらゆっくり話すことが出来た。

そのまま、私と弟は母の生まれ故郷である松之山温泉で一泊。松之山温泉は有馬、草津温泉とならび、薬用効果のある日本三大薬湯と言われ、古くからの温泉地である。湯元の温泉は源泉90度と言う高温で、塩分のある薄茶色の湯は何となく効きそうで体に染み入る。

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翌日、菩提寺でお墓参りをして、もう一度母に会って新潟市に戻る。母はボケる事も無く、まだまだ元気そうだが、冬になれば体調を崩す事もあるだろう。元気なうちに、また会える機会を作りたい。

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翌朝は弟と2時間ほどサイクリング。弟は午後の新幹線で帰って行った。

 

エピソード 9

渡米して4年くらいはハリウッド界隈に住んでいた。エピソード1にも出たEは、一時期ルームメートであったが、彼は頻繁に日本に帰って音楽業界との関係を保っていた。

そのEが日本に一時帰国していた時、突然空港からその時は知らなかったが、後にYMO(イエローマジックオーケストラ)のマネージャになるOさんから電話があり、「Eから連絡を受けていると思うけど、空港に着いたので迎えに来てもらえる?」と言う、「え~!何も聞いてないけど、ともかく迎えに行きます」空港に行くと既に何枚かアルバムを出していると言うミュージシャンのM君と一緒。

二人はハリウッドの私のアパートに数日いて帰国。しばらくして私もYMOの存在を知るが、版権の一部を持っていたOさんもあの後すぐに羽振りが良くなり、ロールスロイルに乗っていたと聞いた。M君はその後アメリカに移住して今でも付き合いがある。

 

日本で顔の広いEからの紹介で同じような事が新宿ライブハウス・ロフトの社長Hさんのケースも。やはりEからの紹介で空港に向かいに行き、数日私のアパートに滞在して、連日ハリウッド界隈を視察(?)して回り、二人とも帰国の前日飲み過ぎてやっとの思いで空港に送り、チェックイン。その頃は見送り人も奥の待合室迄ついていくことが出来た。待合室の目の前にはジャンボジェットがとまっている。安心したのかそのまま二人とも爆睡。目が覚めると目の前に停まっていたはずの飛行機がすでに離陸して居なくなっている。飛行機にチェクインはしたけど、寝過ごして乗り遅れると言う大失態。翌日の便に変更してもらい、無事に(?)日本へ送り出せた。

 

その他にも、Eのコネクションで、布施明、矢野顕子、リトルフィート、フランク・ザッパ、喜多朗などに会わせてもらった。40年以上前のことでもう時効だが、矢野顕子のデビューアルバム『JAPANESE GIRL(日本人形)』のレコーディングは毎日Eとハリウッドのスタジオに関係者のような顔をして通い、リトルフィートとのレコーディング風景をまじかで見せてもらい、打ち上げの宴にも参加させてもらった。後に矢野顕子とリトル東京で出会い、「何をやっていらしゃる方なのですか」と聞かれ、「実は、音楽関係の者ではなく、現地の関係者の友人です」と正直に話したところ、私を現地の大物かと思っていたという彼女は「そう、だったの~」と笑い飛ばしてくれた。

そういえば同じころ、石田純一と結婚する前の松山千明さんをハリウッドからディズニーランドまで車で送ったことがあった。誰に頼まれたのだったか?

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ミーちゃんはお気に入りのぬいぐるみを毎日方々に持って回るが、なかなか咥えて移動する姿をとれなかったが、やっとガラス越しの撮影に成功。