桜を愛でる

帰国以来、恒例になっているうちの裏手にある『我が家の裏庭』と言っている公園での桜を観る会を主催する。一週間くらい前から、ベストの開花状況と天候を見て、13日の土曜日に決める。親しい友人達に声をかけ、総勢9名になる。この公園は桜の名所でもないので、花見をする人はほとんどいない。それでも9時には場所取りをして、12時から開催。アメリカンスタイルのポットラックパーティーという形式で、参加者の皆さんには一人1000円以内のおつまみか軽食を持ち寄るようお願いしている。

新潟市では昨日に満開となり、今日は無風で快晴、最高の花見日和である。母が言うには「昔の桜はもっと密集していた」と言う、確かに枝あたりの花の量が昔の桜はもっと密度が濃く勢いがあったようにおもう。物価高、高齢社会、先行き不安、桜もまた世相を反映しているのであろうか?花より団子の飲み会である。

 

今回の参加者の中でわたしらと同じくアメリカに長く暮らしていたSさん夫婦は先月日本に永住帰国して新潟市の我が家から近いところにマンションを買われて住み始めばかりなので、最近何度かお誘いしている。アメリカで一番恋しかった花は儚くも美しい満開の桜であった。いま日本全国で桜が咲き、最も愛されている国花である。この公園でのお花見はひっそりとほぼ独占で楽しめる。しかも家から近いので飲み物の補充にもすぐに取りに戻れるので便利である。

 

以下の写真は、翌日の14日に白山公園にて

スキー三昧 イン カリフォルニアスキー三昧  (skizanmai.com)

雪よふれふれ、もっと降れ

肩の腱板裂傷の手術から4か月半が過ぎた。年明けからは2週間に一度の病院でのリハビリと自主リハビリで可動域を広げ肩がスムースに動けるよう努力をしている。腱板そのものは、もうかなりの強度に回復しているかとおもうが、まだ先生からは重い物を持つことと、強い運動は禁じられている。下半身の運動をしながらスキーへの復帰を目指している。

 

高校のOB会で、毎回参加している六華会のスキーツアーが今年も2月18日から2泊で妙高観光スキーリゾートで予定されていたが、私は今回は肩の怪我で参加しないつもりであった。しかし、参加者の名簿を見て、一日目はスキーをしない方たちも多く参加されるのを見て、急に参加したくなり参加をお願いした。ついでに何時もの新潟の相棒O君に声をかけると、スキーをしなくとも、妙高への一泊温泉旅行に参加したいというので、一緒に行くことになった。六華会の半分は東京方面からの参加者で、私より年上の先輩がメンバーの半数を占め、一緒にいて心地良い集まりである。

 

18日の朝、O君をピックアップして、私の車で妙高へ向かう。

赤倉の宿である『金型あかくら荘』に荷物を置いて11時半に東京から到着する仲間の出迎えに妙高高原駅に向かう。駅に着くと、地元のメンバーが続々と集まってくる。やがて列車が着き、まずは外人のスキー客が何人も降りてくる。そしてY会長をはじめ我々の会のメンバーが到着する。六華会はもともと東京在住の卒業生が創立した運動部の活動を支援する団体であったが、今では東京。上越以外の人でも高田高校の卒業生であれば受け入れている。私は帰国してすぐに仲間に入れていただきO君もBOなので入会の資格があり、Y会長から入会の誘いがあり、今回から入会するそうである。おそらく来年はスキーもしてみようかと言う気になっているはず。

3時までチェックインの出来ない宿のロッカールームをかりて着替えて、スキーをしないO君らを残しスキー場に向かう。ゲレンデは快晴で目の前に妙高山が見えて、まるで春のような温かさ。積雪は平年の半分に満たない。2月中旬と言えば平年は最も寒くて積雪の多い時期でなければならない。気象は農作物の収穫とも関係し、その変化はやがて水不足や、極端な酷暑、やがて物価高となり生活を脅かすと知っておかなければならない。スキーヤーでない方も、雪が少ないと喜んでいてはならない、本当は平年並みの寒い冬が安定した生活を続ける為に必要な気候なのです。


まずは一本滑ってみる。ゲレンデのレストランで軽い昼食を取り、肩をかばいながら無理なく流して滑る。この斜面では転ぶ事は無いが、後ろからぶつかって来るスノーボーダーが一番怖い。時たま後ろを振り返りながら斜面を降りる。実はまだ肩にはドクターストップがかかっており、ポールを突かず、無理なく安全なスキーを心がけて滑る。そういえば私の肩の手術をしてくれた新潟済生会病院の塩崎先生も高校の後輩であった。

 

午後から2時間ほど滑って、私は他の人より一足早く3時にあがり、宿に戻りチェックインする。部屋にO君が見当たらないので温泉に行って戻ると、先輩の部屋から戻っていたO君と合流。私も先輩方の部屋に挨拶に行き、しばらく雑談。今回の参加者は総勢26名で5部屋、うち一部屋が女子部屋である。夕飯前に飲み会が始まり私らの部屋では私とO君が最年長で、先輩・先輩とおだてられて杯が進む、いやいや今夜は痛飲しそう。

去年亡くなられた3人の仲間への黙とうがあり、6時から宴会が始まるがビールの外に何本かの日本酒、ウイスキー、ワイン、などがかなり出てきたような気がする。建物もきれいで、これで先輩や地元のコネクションもあり、料金は驚くほどリーズナブルである。。

 

故郷に帰ると、話せばいろんな人との繋がり、関わりが有ることが分かる。今回も私にもO君にも幾つか新しい発見があった。体操部のコーチであったY先生に以前O君の事を話したら、「バレー部のOか」と覚えていらした。数多い生徒の中で50数年経ったいまだに先生が名前を憶えているのは、よほどの優等生か悪ガキと決っている。Oは当然後者の方かと思ったが意外と評判が良い。そのY先生は付属で私の父の教え子であったり、Oの母親が産婆さんだったので、お世話になった人がいたり、親の世代で付き合いが有ったり、地元では話せば話すほどいろんな繋がりが見えてくる。

 

夕食でかなり飲んで、コロナで禁止になっていたカラオケルームが今年から解禁されたので会場を移し、10時までカラオケ大会ですごす。去年の六華会に参加の後、8月に亡くなられた唄の上手かった大森先輩を思い出し涙が出てしまった。大森先輩は私と3歳離れていたが体操部のOBであり、先輩は高校卒業後も夏休みの部活に何度か顔を出してくださっていたので、高校の時から存じあげていた。そして、この六華会でも私が6年前に帰国して参加すると、何かと気遣ってくださり、声掛けをしてくださっていた。

最初の参加から、休みなく滑る大森先輩を見てさすが体操部の先輩だと思っていた。昨年の六華会では一日滑って、膝が痛いと翌日は滑らなかったが皆に心配をかけたくなかったのでしょう、そのころから癌の影響があったと後でY会長から伺った。

大森先輩お疲れ様でした、有り難うございました。

カラオケの後、部屋に戻ってさらに宴会は続く。南極越冬隊長であったYさんも先輩部屋から来てくださり飲み会はまだ続く。この会の面白さは、いろんな年代の、いろんな経験をされて来られた方たちと話せて話題が尽きない事である。私の人生も相当に変わった人生であったが、皆さんの経験、知識は私が出来なかったことなので、興味は尽きない。

翌19日は、荷物をまとめて、朝食の後、今朝帰る方々とお別れして、朝からゲレンデに出て11時半まで滑る。もともと私は18日の午後半日だけ滑るつもりであったが、滑ってみたら、無事に滑れて、やはり面白い、せっかく来たのだからもう半日と欲が出る。


11時半にケーブルカー乗り場向かいの、『ベーカリーテーブルあかくら』に降りて昼食。その後、上越タイムの取材と集合写真の撮影があった。ここのスパゲティーは値段が高いのにまったく美味くない。粉チーズとタバスコで味を変えて食べるが、それでもどうにもならないくらいクソ不味い(失礼)のである。レストランの方、何とかして欲しい。外で集合写真を撮った後、皆様に挨拶をして、O君と帰路に就く。来年は完全復帰で2泊の参加が出来る事でしょう。


途中、高田の実家に少しだけ寄って、半年ぶりに母に会ってから新潟市へ帰る。先月1月2日に102歳になった母は玄関先で私を待っていてくれた。年々体が不自由になりながらも、頑張って生きている母の姿は人生のお手本だと思っている。ここに母が100歳の時に書いてくれた『100歳の教え』があるので添えておきます。

            母の100歳の教え

途中で運転を変わってもらうとしたらO君、出がけに残りのビールを一缶飲んできたとおっしゃる。やっぱり後者でしょう。

         上越タイムス2024-2-20

 

今週のミーちゃん

 

伊豆の旧友達

昨年9月に受けた肩の腱板の手術の経過は良く、年が明けてからは2週間に一度のリハビリに通いながら、ほぼ普段の生活が出来るようになってきている。とは言い、スキーは未だドクターストップであり、春までは重いものはまだ持たないようにと言われている。

 

元旦の能登地震の余震も残る1月24日、東京のアメリカ大使館で家内と共に公証の面談を受ける必要があり東京へ向かう。天気予報では24日から大寒波が日本上空にはいり、23日の夜から25日まで大雪の予報。上越新幹線は降った雪を溶かす装置が付いており、雪に強く設計されているので大丈夫とは思うが、気がかり。

 

出発の前日、23日の午前10時に、上越新幹線が架線の故障により運航中止とのニュース、『復旧までしばらくかかる』とのことで、雪以上の心配の要素となった。明日の朝までに復旧しないと、高崎で急行に乗り換えて東京へ行かなければならない。そうすると正確な到着時間が読めないので午後1時の予約に間に合うよう、早朝の出発となる。

 

23日、夜の10時になってやっと『明日の朝から平常運転の予定』とアナウンスがあり一安心。翌24日、早朝に起きると、外は予報に反して、ほとんど雪が降っていない。天気図では新潟市だけが何故か積雪を免れている。それでも7時半になるとパラパラと雪が降り出し、早めに駅に向かう。

 

9時12分の新幹線で予定通り東京へ向かう。この列車は途中、大宮にしか止まらないで、一時間半で東京駅につく。東京は快晴であった。東京駅とアメリカ大使館周辺で昼食をして時間をつぶし、12時半に大使館に入る。問題なくアメリカの銀行に出す書類に公証をしてもらう。公証はその書類の内容を公証人が証明して公的な書類とすることで、アメリカではいろんな場面でたまに要求されることがある。

 

その後、東京駅、日本橋、銀座界隈を散策する。実は東京のアメリカ大使館は3回目行っている。一度は20年ほど前、アメリカで柑橘類のミバエが流行った時、アメリカの弊社の施設で燻蒸をしてアメリカの公的機関が出した証明書で、日本の通関を通して欲しいという要求をアメリカ大使館を通して日本の通関の管轄省庁に要請すると言う役割であった。しかし事前の根回しはカリー社長がすべてやっていたので私の役割は確認作業的な楽なものであった。

 

その後、夕食は去年の10月に新潟に観光で来た高校の同級生T君と彼の職場のOBの方々と飲食をともにすることになっている。新潟に来た時のマンバー全員が参加してくださるという。午後5時20分に丸の内ビルで会い、行ったお店はかっての皆さんの職場であった三菱商事本社の近くにある7000人を賄う大きな社員食堂で、夜は、一部が居酒屋になり、社員、OB と, その知り合いだけが使えるという居酒屋で、入店には厳しいセキュリティーチェックがあった。

 

まだ、新潟に観光に来た時の記憶が鮮明な今のチャンスに皆さんと再会できて、楽しい時間を過ごすことが出来た。皆さんは主に人事の方が多かったそうで、人間を見る目をお持ちの皆さんには吞んべいの私はどう映った心配でしたが、2次会まで楽しく過ごせて、美味しいお酒でした。

 

家内は一緒に夕方からの食事会に参加した後、猫のミーちゃんのケアが有るので早めに抜けて新潟に帰り、私は東京に一泊の後、翌日三島でYさんに会い、車で伊豆稲取にアメリカからの旧友Sさんを訪ねる2泊の旅の予定である。

 

25日、10時前に三島駅の改札口でYさんと会う。YさんはSさんと同じ三島の生まれで彼とは幼友達、今までに20回近くもアメリカに来ており、私も、その都度頻繁に会っている友人。

快晴の空の下、伊豆にむかう前に、富士山のよく見えるポイントに案内してくれた。青空にそびえる昔から変わらぬ雪を抱いた富士山はきれいで感動的である。富士山はいつか噴火すると言われている活火山、このままの絶景が何時までも続きますようにと願うのであった。

ここから見る富士山の裾野が一番きれきれいだという

    旧東海道はこの車道の左側に並行して保存され残る幅3mほどの街道

 

伊豆半島のほぼ中央を『天城超え』の道路で縦断して東伊豆の海岸線に出て少し北上し稲取に入る道を行く。伊豆半島に天城と言う山はなく天城連山という特に高い山は無いが、火山岩の急こう配の山々が連なる険しい山岳地のことである。今は立派な車道があるが、急斜面の上り下りが多く、昔、歩いての天城越えはさぞかし大変であったと思われる。

 

待ち合わせのマーケットで、Sさんと落ち合う。再会を喜び、そのまま車で伊東、城ケ崎海岸を案内してもらい、買い出しをしてSさんの住むエンジェルス・リゾートへ。

     城ケ崎のつり橋


Sさんのリゾートマンションからは目の前に大島、利島、新島と伊豆七島のほとんどが見え、東京湾から外洋に向け船が航海する様子が眼下に絵のように見える。大浴場は天然かけ流しの温泉であり、電動マッサージ椅子が海に向かって並ぶマッサージルームとスポーツ器具の並ぶジムからは大きなガラス窓いっぱいに海が広がる。

          天然温泉の大浴場からの眺め

            マッサージチェアから


温泉から上がり、宴会が始まると外には満月が浮かぶ。Sさんはアメリカにいた時のように頻繁には会えないが、それでも帰国後も年に一回は会っている。Sさんはアメリカに45年暮らして、3年前に日本に帰国。私とはアメリカで41年間の長い付き合いで、出会いは日本食レストランのアルバイト仲間であり、その後ルームメートであり、スキー仲間であり、熊とドア越しにおしくらまんじゅうをした話、酔っ払ってパトカーをタクシー代わりに家まで送らせた話、ラスベガスやリノのカジノでの武勇伝、モハベ砂漠で目の前に大きなすい星を見ながらのマンモススキー場行、スキー場で初めて会った気の合った人を何人も私の作る日本食の食事に招待した事など、アメリカで一番一緒に過ごした時間の長いSさんとの良き時代の懐かしい話は尽きない。

アルプスを滑る (skizanmai.com)

          部屋から見える大島上空に浮かぶ満月

           相模湾の夜明け

早朝の素晴らしい夜明けの写真を、やはりアメリカ暮らしの長かったS.Sさんに送ると、湯沢からこの写真にLAの海を思い、「カタリナアイランドがはっきり見えますね。きっとマッスルビーチもそろそろ店じまいでしょうか?」とコメントを寄越すが、相変わらずの冗談好きと思うが、いや、しばらく会っていないので本当にボケた可能性もあると心配になる。

6月の半ばを過ぎて、今年はまだマンモスで滑られる (skizanmai.com)

 

今日も快晴で伊豆半島の南端へ向かう。途中カリフォルニアの海岸を思わせる白い砂に明るい海の色に感動する白浜海岸、そして日本最初の開港地である下田港、弓ヶ浜、伊豆半島最南端の石廊崎。冬の暗い日本海との海の色の違いに驚かされる。

  カリフォルニアの海のような明るい色の白浜の砂浜

               黒船来航の下田港でSさんと

            ペリーロード

      伊豆最南端の石廊崎の灯台

          ここが半島の最南端

   新潟にも、「日本一うまいところてん」といってるお店があるんですけど?

 

              弓ヶ浜


最終日、朝から温泉に入って、裏山を気分よく散歩する。昼食は、お勧めのそば屋さんに行ったら今日は閉店で、稲取港で毎週土曜日に開くというの朝市に行くと、これが大正解。地元の人が食事、物産を売っていて、金目鯛の釜めしをオーダーすると700円で具だくさんの金目鯛のあら汁が飲み放題で付いてきて、我々は4杯もお替り。そこで私は糖度19度のミカンと取り立てのワサビを買った。

    望遠を使うとコンパクトカメラでも、ここまで写せました

             裏山を散歩

            野生のシカがいました

        漁師料理のあら汁がばかうまでした


食後Sさんを送り返して、別れの挨拶。お互い元気でまた会いましょう。健康なら、おそらくは来年あたり最後の大冒険か?

Yさんとまた天城越えをして三島に戻り、私は帰路に就く。天城ではすでに早咲きの河津桜が咲き始めていた。

 

楽しい旧友との再会だった。Yさんが車で案内してくれたので、前回は見れなかった伊豆の観光地を訪れる事が出来た。Sさん、Yさん、そして今回出会ったすべての皆さんに有り難うと伝えたい。

 

追伸:

いまだコロナは終息したわけではなく、メディアが取り上げなくなっただけである。とりわけ、冬の1月2月は患者数が急増しており、60歳以上の入院患者が増えている。米国疾病対策センターによれば、感染して後遺症による不快感を訴える人は65歳以上では4人に一人。それが1年以上続く人も多い。高齢者は特に、気を付けて感染しないように過ごしたいものである。

 

SARS-CoV-2の感染が起こりやすい環境条件をわかりやすく説明したものが、「3つの密」と呼ばれる概念である[1,13,14]。

密閉:換気の悪い閉じられた環境
密集:狭い空間に多くの人が集まっている環境
密接:お互いの距離が近く、特に会話をしている環境

3つの条件に1つでも当てはまる環境に感染者と感受性者が滞在すると、感染が成立する可能性は高くなり、さらに3つの条件がそろうとより高くなる。

 

マスク、手洗いをして、換気のいい処で1.2m離れることで感染はほとんど防げるようです。どうぞ、この情報を共有して、気を付けてお過ごしください。

謹賀新年・波乱の元旦

今回は主にアメリカに住む友人達に元旦に起きた能登半島地震の詳細を伝えとともに、日本に住む友人達とは震災に備える心構えをシェアすものです。

 

年末に年越しのお節を食べ、2024年1月1日、新年が明けた。曇り空の下、歩いて初詣に行き、四か所の神社をまわる。新潟大神宮、新潟県護国神社、白山神社、新潟護国神社。新年の無事と平安を祈願して午後1時ごろ帰宅。

 

そして家に帰って3時間後、元旦の午後16時10分、携帯から突然の緊急地震警報がけたたましく鳴り響く。『大きな揺れが来るので退避してください』という。地震でまず考えることは「最終的な震度はどのくらいだろう」「震源地は何処だろう」と、思うが、最近の携帯警報はすごい。アプリを入れて置けば実際に揺れる2~3分前に警告音がなり、避難を促す。日本ではこの速報警報システムにより、新幹線は一斉に非常停車をして大惨事を避ける事が出来ている。すぐに震源地は石川県の能登半島で新潟市での予想震度は3と知らせがある。第一波の揺れはたいしたことなく、「ああ、大事にならなくて良かった」と安堵していたら続いてまた大きな警告音。

 

少し、時間をおいて第2波の揺れを感じる。第2波の揺れが一番大きく長かった、ゆさゆさと建物が揺れ出す。壁にかけた額縁が激しく揺れる。割れ物の入る飾り棚は地震にそなえ、ある程度は固定してあるので被害はなかった。我が家は14階建ての築15年のまだ新しい部類の鉄金コンクリートのマンションで、ここは7階である。耐震性は強いはずで、津波にも強く、地震の時は家に留まるのが避難所に行くよりも一番安全である。

 

しかし、その時に何処にいるかにより、古い建物ならば建物が倒れて生き埋めにならないよう、警報があった時はいち早く火元の始末だけして外に避難すべきである。今回家が崩壊して下敷きになった犠牲者が全体の8割を超えるという。そして揺れが収まったら、次には津波の心配をして高台へ避難しなければならない。

第2波の揺れは長く続き、どこまで被害が広がるのか、揺れが収まるまで、震源地の事や、ここより震源地に近い実家のことなどが気になるが、収まることを祈るしかない。携帯に続きすぐにテレビなどで情報が入りだす。新潟市の震度は5であった。第二波の方が大きい地震は珍しい。能登地方ではマグネチュード7.6で、震度7とかなり大きい。新潟市での震度5は私が経験した中で一番大きい地震であった。

 

地震が収まって、今度は津波警報がでる。津波警報は東日本大震災の悪夢がよぎる。その後も何度か揺れは続き、原子力発電所もあり、安全の確認、津波、家屋倒壊、液状化現象など地震に伴う十分な注意が必要。日本海側の地震の特徴は津波の到着時間が早いことだそうで。新潟市は海抜以下の地域が方々にあるが、幸い堤防を越える規模でなく、津波の被害はなかった。

 

新潟市は震源地から約150キロ離れており、大きな被害はなかったが、それでも、半壊3軒、一部破損774軒と、距離の割には被害が出ている。新潟市はもともと日本最大の川、信濃川の作った砂地の土地なので、西区の一部で液状化現象が起きて路上に土砂や水があふれ出したり、道路がひび割れて浮き上がったところがあった。今回能登半島で動いた断層は新潟の佐渡島の西まで続いているそうで、実際、能登の地震に影響されたと思われる佐渡島沖合いを震源とする震度3の地震が何回か起こっている。

 

新年の元旦から避難所生活を強いられることになった能登地方の方たちの事を思いやる。日本は地震大国、何処にいても被災者となる可能性がある。防災速報アプリは絶対に入れておくべきで古い家に住む人は、屋外に退去する事で多くの命を守ることが出来る。8日夕方でこの地震で亡くなった人は168人、安否不明の人がまだ250人近くおり、いまだ集計中で情報が不明なところもあり実際の数字はまだ増え続けている。

 

被災地でも新潟でも7日は雪が降ってきている。寒い中での帰る所のない避難生活は何時まで続くのか、生と死のはざまを見た大勢の方々がお正月から先の見えない過酷な状況にある。自然災害も、戦争も、善良な市民を被害者にするのはもう勘弁してほしい、それが新年の願いである。

Merry Christmas and A Happy New Year!

2023年も終わろうとしています。コロナ感染は話題にならなくともいまだに終焉していません。そしてロシアによるウクライナ侵略に加えて、中東ガザでの新たな戦争が勃発しています。戦争はどちらが勝利してもすべてを破壊して傷つけ合い、怨念が残り、またいつか繰り返されるのでしょうか。なんとも人類は過去から学べない生き物のようです。

 

日常的な気候変動、物価高と落ち着かない世相ですが、いずれとも日々共存していかなければならないのかと思います。そんな中、数少ない朗報は野球WBCでの日本チームと、その後の大谷翔平選手の活躍でした。彼が私の第二の故郷ロサンジェルスのチーム、ドジャースに加入したニュースは嬉しい知らせでした。

 

私事では自転車からの転倒による腱板断裂の手術を3か月前に受け、だいぶ回復してきましたが、まだ当分は無理は出来ず、今期はスキーを自粛しております。

皆さまとご家族が新年を無事に迎えられ、健康で過ごされますことを心より願っております。

 

2023年  12月 吉日  小堺 高志

Web site: www.skizanmai.com ・  Blog:https://skizanmai.hatenablog.com/

e-mail: kozakai@earthlink.net  or tklos1029@gmail.com

 

〒951-8104    新潟市中央区西大畑町5191-14-701

師走の世相 + エピソード 35 アメリカの雇用

12月になったが、新潟市では雨の日が続いている。いまだ雪になる気配はなく、天気のいい日には春のような温かさとなり、人々の財布と心は寒くなる世の中である。

 

腱板裂傷の手術から11月29日で二か月になり、肩の装具も取れ、車を運転できるようになった。先日、久しぶりに1時間ほどの距離にある五泉の吉清水に湧水を汲みに行った。ここは水量が多く、水源では4本の注ぎ口から湧水が絶えることなく流れ出している。すぐ近くに車を停める事ができ、11月23日は勤労感謝の休日のため、常に3~4台の車が止まり、数人の人がペットボトルなどに湧水を詰めていた。私も、36本の2Lペットボトルの湧水を詰める。まだ右手では持てないので、時間がかかるが、ここではほとんど待たずに出来る。その翌日のニュースで五泉中川新に小熊が出たという。中川新は吉清水のある地区名である。

 

熊も好んで人里に出てきて騒動をおこしているのではない。山に食べ物がないので、人里に出てきて生きるために食料を探しているのである。

今まで取れていた農作物が天候に左右され、不作が続き、海では水温の変化で昔から食べ親しんだサンマや鮭が取れなくなった。人間もまた熊と同じで、今まで食べていたものが無くなれば他の代替品を探し回ることになる。

 

世界的な天候不順で、水害、渇水、海面上昇といずれも天候は食糧不足に直結する。琵琶湖の水位がさがり、よく滋賀県人が京都府民に言っていた「京都への琵琶湖の水を止めたろか」という冗談が水不足で現実になるかもしれないという。世界的に天候が変わり食糧不足になれば自給率の少ない日本は最初に影響を受ける。

 

食べ物のためなら人間もクマのように他人の領域に入り込み、騒動を起こし、人の心も荒んでくる。ウクライナしかり、世界ではすでにその動きは始まっている。

経済的、物質的な不自由が生まれれば人々の心は荒れ、窃盗、強盗、泥棒、詐欺など犯罪が増える。お年寄りのなけなしの年金をだまし取る人、SNSでは他人を誹謗中傷することで自分のストレスを発散させる人。そのエネルギーを使って、どうして一人でも多くの人が幸せになることを願うことができないのか?などなど、日本人にも思いやりの心を持つ人が減りつつある事を憂うるのは私だけであろうか?

 

世界からも、いいニュースは少ない。ウクライナの先も見えないうちに、イスラエルとイスラム系との戦争状態が起こってる。パレスチナ・ガザ地区に住むハマスはイスラエルに対するイスラム教徒の過激組織である。パレスチナの歴史を知れば、ガザ地区と言う狭い地域に追い込まれ、強国イスラエルから絶えずいじめを受けてきた。パレスチナ難民はイスラエルに対し、子供たちは石を投げ、過激派はテロをして抵抗することしかできなかった。

ニュートラルに考えれば今回の衝突はイスラエルにも大いに責任があると思う。ユダヤ人はヒットラーからのジェノサイドの犠牲になったが、同じ思いをガザ地区の人たちに味合わせてはならないのである。互いに長年にわたり憎しみの感情を育て、憎しみ合ってきた民族に平和な生活はない。たとえイスラエルが制圧しても、この恨みは何十年も、何百年も続くことは歴史が語っている。何年も互いに傷つけ合い、最も被害を受けるのは常に罪のない一般の住民である。

世界中に一人でも幸せな人が増えますようにと、今年の師走は今まで以上に強く願うのである。

 

エピソード35 アメリカの雇用

 

私は66歳でアメリカで退職した。私の年齢では65歳でアメリカの年金が100%支給されるということもあって、このタイミングで私が退職を決めたのである。

私の知る限り一般的なアメリカの会社では正社員であれば退職年齢は何歳で退職しなければならないとは明文化はされていないと思う。私の居た会社も支障なく仕事の出来る健康状態であれば66歳以降も働きたいと思えば働けたし、実際に80歳を超えて働いている人もいた。もちろん、経済的に余裕があり早期退職する人も同じくらいいた。もし、私が日本への帰国を考えなかったら、その後も普通に働けて、昇給も続いてさらに数年間は働くことが出来たはずである。

 

私の退職、帰国に当たって、日本に生活の基盤を作るまで何度か行き来し、私の都合のいい様に退職のタイミングを調節してもらったり、直前までカンパニーカーを使えるように便宜を罹ってもらったりしたので、かなり恵まれた状態であった。

 

必要な人材には手厚い待遇をする一方、アメリカのビジネスはシビアでもある。私が在籍した会社では物流業界の競争に勝つため、非正社員が多かった。アメリカの小売店では10月から年末までの3か月間で一年の半分の売り上げがあると言われる。9月中頃から物流業界は忙しくなり始めるが、それまでは比較的物が動かず暇な時期になるので倉庫やドライバーは正社員を抱えていては商売が成り立たない。倉庫作業員数を暇なときは簡単に減らすことができるよう派遣会社を通してその日必要な労働者を雇っていた。しかし実際はその人材派遣会社もまた息のかかったグループ会社であった。

 

倉庫で時間給で働く人たちはスーパーバイザークラスからは年間を通じて仕事があったが、その仕事に就いた年功序列で古くからいる人から順に仕事に出れるので、新入りは最初のころにはフルタイムの仕事ができるのは忙しい時期だけということになる。派遣社員で先任者になるにはその境遇を乗り越えなければならないというシビアな職場であった。その代わり、私のいた会社では時間給ベースで働く人にも業界内では上位の待遇をしていた。

 

トラックドライバーもまたもともと正社員であったのが、Team Star Unionというアメリカ最強の労働組合の一つと対峙し業界で初めてドライバーを社員ではない個人契約事業者と位置付けたのは西海岸で最大の港湾トラック会社でもあった私の在籍した会社のカリー社長であった。Team Starはもともとその設立にギャングが関係していたと言われる。一番得をしているのは組合のトップの人たちであり多額の組合費を納めて、表向きのドライバーへの支払いは増えるが競争力は低くなり、退職後の恵まれた権利を手にするまで働く組合員は少ないと言われた。

 

Unionizedによる輸送経費増加は結局消費者の負担となる。その組合から脱却するための交渉で組合の担当者はワシントンから自家用ジェット機で交渉に来るという労働貴族であった。社長はなぜかその担当者に気に入られ、「もしあなたが望んで組合に残るならロサンジェルス、ロングビーチ港に出入りできる唯一のトラック会社にしてあげる」と持ち掛けられたが、社長は「私の眼の黒いうちは、それはあり得ない」と突っぱねたという。

 

その担当者の退職に伴う置き土産のようにユニオンから抜け、ドライバーは個々の契約業者であり正社員ではないという扱いとなった。会社に出入りするドライバーは自分でトラックを持ち込む者と、ボスと呼ばれるトラックをドライバーに貸し出す人もいる業界であったが、毎日同じ会社で働くので属する会社の社名をトラックにつけていたし、配下のドライバーには健康保険、トラック購入のためのローン保障、事故障害保険、安全点検など、いろんな特典を与えていた。

 

仕事から離れて帰国して6年が過ぎた。懐かしくも、充実した毎日であった。

 

先月のミーちゃん

ハピー ハローイン

実際は嫌がって抵抗してました

箱があると、ともかく入りたがります

気まぐれミーちゃんは、たまに甘えてきます

だいたいはシカトしてるので、足でちょいちょい

 

腱板断裂の退院後

新潟済生会病院に9月28日に入院して、29日に塩崎先生の肩の手術を受けた。腱板断裂の手術は私の場合、骨に5mmのアンカーを3個埋め込み、それぞれのアンカーに付いた2本の糸を切れた腱板に縫い付けて腱を引っ張って固定した。この腱板修復手術を塩崎先先生は、内視鏡で行う第一人者で、県内外からも患者が来ている。

 

医学の進歩は目覚ましい。内視鏡により手術跡も小さく、手術中は神経ブロックと全身麻酔で、手術後も無理に手を動かさなければ痛みはほとんどなかった。手術は上手くいき、後は時間をかけてリハビリをしながら、手術後の腱が自分の再生された細胞で覆われることで元の強度になっていくということである。

普通に腕を動かす運動は半年後、激しい運動や腕立て伏せをするためには約1年かかる。急いで無理をすると縫ったところが綻び、再手術と言う人も珍しくないというので、今期のスキーは重いスキー道具を持たなければならないし、転ばなくとも、ぶつけられる可能性があるので自粛することにする。 

 

10月13日に退院して、装具が取れるまでさらに4週間、当面は不自由ながら軽いリハビリに努めての、自宅療養になる。2週間の入院は、長くもあり、あっという間でもあった。私の入った済生会病院の5階は、全員整形外科の患者であった。肩の患者と、足の患者が入院していて、足の骨折患者はギブスを付けて、早くに退院する人も多く、見たところ肩の患者の方が入院期間は長いようで、私より大きな装具を付けた6週間の入院と言う人が多かった。

 

私が何本ものチューブ、コードを付けて身動きが出来なかったのは幸い手術の翌日一日だけであったが、一日でも、自分の意志で動けない状態はストレスであった。痛さ、苦しさは、誰にも変わってもらえないし、変わってあげられない。自分で受け入れるしかないのである。幸い今回は、病気ではなく先の見える怪我であったが、つくづく健康のありがたさを実感する入院であった。

 

塩崎先生は日曜以外は土曜も毎朝7時過ぎには回診される。同じ出身地であり、忙しい中、私の世間話にも付き合ってくれた。医師は大変な職業であり、怪我人、病人の最後のよりどころである。先生には感謝に堪えない。 

 

O君が車で迎えに来てくれて、2週間ぶりに退院する。外に出ると入院中に季節が秋に変っていた。私の2023年の長く暑い夏はこうして過ぎていった。

 

 

退院して3日後、4年前にイタリアへスキーに行った時のメンバーであったTさんが退職した会社のOBの仲間と佐渡・新潟の旅で来られるということで、2か月ほど前から情報を差し上げており、その日、夕食に夫婦で御招待いただいていた。古町の「丸伊」に行くと4組の夫婦と、2名で総勢10名の方々が迎えてくれた。

イタリア・スキー遠征 - skizanmaiの日記

 

皆さんは大手総合商社、三菱商事の退職者であり、海外駐在の経験者も多く、アメリカで商社さんとの仕事のお付き合いがあった私との共通の話題も多く、時のたつのも忘れ、楽しい会話が弾む。入院中は飲めなかったお酒が美味くて杯が進む。皆さんもよく飲まれる。そもそも在庫が少なかったようだがお店のワインを飲みつくしたようで品切れと言われる。

 

会食の後、すぐ近くの日本最初の洋食店であり、今はホテルとなっている、「イタリア軒」に案内する。途中で10名ほどの古町芸妓さんたちとすれ違う。これほどの大人数の芸妓さんを一度に見ることは新潟市に住んでいても滅多にない。

 

イタリア軒のロビーでこのホテルの歴史に触れていると、突然、8名ほどの。ミス・インターナショナルの出場メンバーに遭遇。大会前に、何組かに分かれて日本全国を巡り、ここ新潟でも交流の場を作っているそうである。我々のメンバーも一緒に写真を撮らさせてもらったが、ミスの皆さんはおそらく170cm以上の身長があり、さらにかかとの高いヒールを履いているので同じ人類とは思えないスタイルである。外国人を見慣れているはずの私でも、日本でこれだけの美女に囲まれると圧倒されるのである。やっぱり娑婆の空気は美味い。

思いがけない幸運に恵まれ、Tさん一行にも思い出多い新潟の一夜となったことでしょう。

 

翌朝、伊勢丹に行くため、家のマンションの隣の旧齋藤家別邸の前を通ると、市内観光中のTさんたちと再会。新潟では循環市内観光バスによる観光を提案させていただき、時間的にも出会うかもと思っていたがドンピシャでした。

皆さんは、この後少し離れているが私のお勧めの北方文化博物館(豪農伊藤家の邸宅)をタクシーで訪れる予定で、夕方にまたご一緒することにして、私たち夫婦は買い物にいく。

夕方、私的に新潟で一番おいしいと思っている「やま路の笹団子」をお土産に駅ビルの中の居酒屋でまた皆さんと会い、会食をする。北方文化博物館も見ごたえがあったと、喜んでいただけたよう。 

一行の皆さんはT君が幹事役で時折こういう旅を実行しているそうで、さすが、元商社マンまたお会いしたいと思う方々でした。 

新幹線の改札口で。皆さんを見送り帰宅した。

 

今週のミーちゃん