会津・什の掟の旅

O君から誘いがあり、Fさん、Hさんと4人で会津高松に一泊の旅。相変わらずO君はお得な旅を見つけてくれる。今回は温泉で一泊して、2食付きて夜は食べ放題、飲み放題の旅で、4人集まれば一人5500円。お酒を飲まないFさんが車をだして運転してくださり、「後ろで飲んでてください」という有り難い旅のお誘い。全員退職者で、私とO君は同級生、Fさんは少し上、Hさんは10歳少し上と言う年齢層。

私、Oくん、Hさんの順番でFさんの車で拾い集めて、隣の県、福島の会津地方へ向かう。今回は歴史好きのFさんの解説も得て、幕末の悲劇の藩、会津藩の歴史を学ぶこととなる。

まずは会津藩校であった日新館に寄る。元々は城下にあった施設であるが、今はお城から離れた場所に再建されている。会津の武士部隊は年齢により4階級に分けられていたが、ここで学んだ16歳〜17歳の少年達が属するのが白虎隊であった。

この藩校で教えられた什(じゅう)の掟(什とはグループとか班という意味だそうだ)というのがあり、今でも会津では事あるごとに子供達に教えられ伝えられているという。

什の掟
一、 年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、 虚言を言ふ事はなりませぬ
四、 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、 弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、 戸外で物を食べてはなりませぬ
七、 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです


この掟は旅行中何度か目にするが、掟の7に関しては現代にマッチしないのか俗説や載っていない物もあった。勿論、会津の土産物屋のご婦人方は盛んに話しかけて来るので、無視をするのに大変である。そしてだいたい、掟に背いて引っ掛かって、結果、お土産物を買ってしまう。

此処は一度に1000人以上の生徒が学んだ大き藩校を再現した施設であり、今日は小学生の修学旅行のバスが何台も入ってくる。入り口で小学生の高学年の児童が一人引率の先生に怒られている。「自分で勝手な行動を取って、3人が迷子になりましたとはどいう事だ!、勝手な行動ではぐれたのはお前だろう!」と、引率者の大声が響く。これは掟の3、4からすれば先生が正しい。しかし、目茶苦茶大きな声で罵倒している。「はい、はい」と、掟の1に従い、神妙に聞く児童。Oくん、その先生に「ここで大きな声で叱ったら、他の人が気分の悪い思いをするでしょう」と、苦言を呈した。掟1により素直に謝る引率の先生。

弓道場にて射的の体験。5本の矢を射て、もし当たれば写真と名前が命中者名簿に残されるらしい。弓を引くのは初めての経験。かなりの「的外れ」に飛ぶ矢がほとんどの中、私の一本は的上10cm位に届いたのがあり、惜しくも当たらなかったが初めてにしては上出来で満足。

次いで、白虎隊自刃の地、飯盛山へいく。まずは手前に有る白虎隊記念館へいき、白虎隊について学ぶ。もともと会津藩の実戦戦力に満たない予備軍の16〜17歳の若者が属する隊であったが戊辰戦争の一大事に実戦への参加を嘆願して認められたという。実戦に参加した白虎隊は、西軍の勢いは止められず、西軍に追われた白虎隊中2番隊の生き残った20名は猪苗代湖から水道に沿ってここ飯盛山まで逃れる。ここから燃える城下をみて、お城は陥落したと思い、自決する事を決意。

猪苗代湖から続く長い水道洞穴の出口、かつて白虎隊士が飯盛山へ逃れた道

城下の見える山腹へすすむ。ここで19名が命をたち、倒れていた飯沼貞吉だけ、介護を受けてその後も生き残った。飯沼は生涯、白虎隊の最後を語り残し、今の世に白虎隊の名を広く知らしめた。

飯盛山より遠く鶴ヶ城を望む

その時代、そこに生まれた若者が歴史の流れに巻き込まれていく切なさを感じる。

さて、昼食後我々現代の煩悩いっぱいのおじさん達は什の掟その6、『戸外で物を食べてはなりません」の掟に背き、年長者Fさんが「どうぞ。どうぞ」というものだから(掟1)車内後部座席でO君とお酒を交わしながら次の鶴ヶ城へと向かう。

鶴ヶ城は白虎隊の中二番隊が飯盛山での自刃から一カ月後、降伏し、落城。戊辰戦争後取り壊されて、昭和40年に復元されたものである。最後の九代藩主徳川容保が幕府より京都守護職に命ぜられ断り切れずに就任。これがその後の旧幕府派としての会津藩の悲運を決める事となる。

閉館の時間に追われるように、天守閣にあがり、周りの景色を見るが、お城はコンクリート造りの復元であり、城下町もほとんど戊辰戦争で焼けて残っていない。商魂たくましい会津っ子は、その後、街の郊外に日新館、武家屋敷など、復元して観光地にした。掟の3も7も生活の糧には破る事も致し方のないこと。

今夜の宿、東山パークホテルへチェックイン。
ホテルに着くとまずは温泉へ。ほとんど無色無香の温泉。そして7時半から食べ放題、飲み放題の夕食へ。食べ物の種類も多く、地酒もあり、なかなかのもの。

翌朝、5時に温泉にいくと、こんな早い時間は温泉の利用者も少ないだろうと思いきや、早起きの年配の人が多く、夕べより混んでいた。9時ごろにチェックアウトしてすぐ近くの歴代藩主の眠る墓所へ寄る。車を停めて15分ほど山道を登らなければならない様で、高齢のHさんに駐車場で待っていただき、3人で昇り始める。入り口に「21日に熊が目撃されました、危険ですので散策はご遠慮ください」と、注意書きがある。「え、え〜!しかし、大声出して行けば大丈夫でしょう、熊だって人間が怖いはず」と、熊が聞いたら笑われそうな、手を叩いたり、吠えたりしながら石段を昇り始める。

途中にモーターで動く草刈り機をもった作業員がいて安心。墓所に着いたら何人かの観光客もいた。徳川容保のお墓もここにあり、お参りして下山する。下りてからもう一つの駐車場なら山道を行かなくともよかった事を知る。やっぱり熊に笑われている気がする。

武家屋敷へ。これも場所を移しての復元ものだが当時の家老屋敷の大きさに驚くが、部屋は狭くて暗い。大概の部屋は火鉢と肘掛けそして座布団くらいしかなく、当然テレビはないし、今の人にはとてはリラックスできる空間とは見えない。ここ中で什の掟を守っての生活はとてもストイックに見える。今の時代で良かったと軟弱な現代人は思ってしまうのである。

Fさんが運転してくれるので、私とOきんはまたもや後部座席で掟破りの缶ビールを飲みながら、次の観光地・野口英世念館に向かう。隣に有る会津民俗館で我々の世代には懐かしい電化前の昔の家、日常品を見て、野口英世記念館に入る。野口英世生家は会津では珍しい復元ではない本物が保存されている。新しい記念館の建物が生家を丸々包む様に造られていて、生家には英世が1歳の時に落ちて火傷をした囲炉裏や、出立の時、柱に刻み残された有名な『志を得ざれば、再び此の地を踏まず』も、現存する。


野口英世の才能を見出し、お金をだして高等小学校への進学を援助した恩師が居る事は知っていたが、貧しい家に生まれた野口英世が世に出て後世に名を残すには3人の恩師の献身的な援助が有った事を知っる。

生家は現存するが、その道路の向かいにはビール館、ガラス館と観光客の呼び込みに抜かりの無い今の会津藩であった。思惑通りビール館に引っかかる我々。ところでOくんは私が週に3日は飲まない日があると言っても信じてくれない、飲んだ日数と同じくらい飲まない日を作り、大食した後は軽い食事と普段より多めの運動を心掛けるのは私なりの掟である。運動のし過ぎか、最近お腹に筋肉(?)が付き過ぎて、腹回りが若干気になるこの頃である。ははは。

会津最後の〆は喜多方ラーメン。ラーメンを食べて帰路に付く。内容充実の2日間であった。

追:歴史に関してはテレビで『八重の桜』を観た皆さんの方が詳しいでしょうが、間違っておりましたら、ご容赦願います